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なんとなくエロマンガのこと

 男根から汁がどばーっと出ていたり、ホルスタインみたいな爆乳お姉さんが肉棒を挟み込むようなタイプの、男性側からみたフィジカルな快感を、ヴィジュアル的に分かりやすい形で表現したものばかりが、どんどん増えている感じがする。最近、成人向けマンガ棚の前に立っていると、ほかの人たちに置いていかれた感が強い。

 

 成人向けマンガにリアリティとか、人間の器官に関する現実性を求めても、全く筋が違っているのはわかっている。そもそも、現実の世界では、幼馴染が朝になると迎えに来て、口で抜いてあげるねなんてことは絶対に起らない。欲望に押し流されるままに実姉に中出しなんてしようものなら、社会的に抹殺されることは明らかだ。そもそも実姉とセックスしようなんてこと、考えもつかないわけだ。だから、こんなことを言っても仕方がないのだけど、それでも、デカすぎる胸や洪水のような精液をみたら、あるいは明らかに女性器と不釣り合いなマックスマーラが描かれていたら、もう頑張れない。某絶望放送的なウェブラジオで「ヤギ VS ロシア女」なんてものを紹介していたけれども、僕にとってはそれと等価なのだ。それによって、現実に引き戻されてしまうのだ。

 

 ただ、世の中の趨勢として、そういったわかりやすい描きこみがされないと「濃さが足りない」と言われてしまう傾向はある。ということは、僕の抱いているおそらくマイナーであろう欲望の形と、成人向けマンガ読者のマジョリティとの間には、何らかの差異があるということだ。それはいったい、どのようなものなのだろう。

 仮説として考えたのは、こうだ。僕は、あるいは僕に似た欲望の形を持つ人たちは、キャラクターの背後にあるストーリーを想像する際に、その想像力の発露を邪魔しない、ある程度「本当らしい」女体の描写を求めているのだ。そこに描かれているものは、僕が僕自身の欲望にアクセスするための玄関でしかない。だから、如月群真Cuvie、けんたろうといった人たちの描く女の子たちを僕は好む。整えられた線と成人向けマンガの表現としては抑制された表情、そこを起点にして抽象化して、あるいは物語化して、さらには自分の現状と連結して、それを消費しているのだと思う。

 一方で、いわゆる「濃い」描写や、現実をはるかに超えた液量・乳規模を求めることのベースにある欲望は、どういう形をしているのか。これは、完全に想像でしかないけれども、肉体が与える・肉体に与えられる快感量を、計量可能な形で表現しているのではないだろうか。つまり、具体のレベルや実感的現象のレベルを離れることなく、行為と行為から得られる快感を一般化することなく伝えるための方法として編み出されたのが、ケフィア量のインフレであり、乳規模の無限拡大だったのではないかと。人間の想像力なんてものは、論理的でないしノイズにしかなりえないと考えるならば、体積や重量など数値化できる形でエロスを表現しようとする者があらわれても驚きはしない。そうして、成人向けマンガ業界における表現の変化が起こったと考えられないだろうか。

 

 そう考えると、これは、欲望さえもアナログな認識からデジタルな認識へと変化していることの表れなのではないか、と15年くらい前に流行ったような、時代遅れの現代文化論みたいなオチがつきそうなのだ。そもそも、ちゃんとさかのぼってエロマンガ史をみてきたわけではないから、至極適当な話なのだけれども。ただもう、そこから頑張って出ていくような気力も体力も尽き果てた。あと僕にいえるのは、アへ顔ダブルピースを、女性の感じている快楽を表現する方法としてとるのは、わかりやすい好/悪・快/不快の表現が求められているということなのかな。女性を、複雑な機構と感情の動きを持つ他者としては認識しない、単純に性的な快感を与えてくれる存在としてまなざすことの宣言なのかもしれません。さあ、深夜なので、オナニーして寝ます。