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気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

AKB48にみる、日本の伝統的美意識

 

 前田敦子の卒業を機会に、真剣にAKB48の勉強をするようになって1年半がたった。それ以前から、ぼんやりとはながめていたけれど、それもチームB(まだ、柏木Bだったころ)がなんとなく好き、増田有華カッコいい & かわいいくらいのレベルだった。

 あっちゃん卒業の時点で一度、AKB周辺の現象を意味づけしなければと思い、AKBとそれをとりまく人々を分析的にみていこう、あくまで現象の外側に立って観察しようと考え近づいた。けれども、気がつけばAKBだけでなく、姉妹グループのSKE、NMB、HKTまでチェックするようになった。もう観察者でもなんでもなく、現象に巻きこまれて当事者のひとりになってしまった。

 

 どうも、こういったことは、私に限って起こることではないらしい。自覚的、意識的にAKBへ近づいた者たちは、例外なくその現象の渦に呑みこまれていくのだという。チームB推しから、SKEのチームKII推しになり、さらにはKIIの秦佐和子推しになるという立派なヲタ成長を遂げた私のように。AKB0048のBDをそろえて、その購入者特典である、派生ユニット NO NAME ライブイベントにまで参加してしまう加速ぶりに、私自身が一番驚いている。

 (最近は、HKT48後藤泉から、高いレポーター適性と司会者適性を感じる。)

 しかし、当初の目的に立ち戻れば、私が明らかにしたいのは「AKB48グループを中心とした現象から、どのような意味や特徴的構造を読むことができるか」ということだった。のめりこんでからも、何か手がかりになるものはないかと、ゆるゆる考え続けていたが、ようやく一側面を切りとれそうなアイデアが出てきたので書きつけておく。

 

 アイドルのプロデュースを考えるとき、われわれが一般に想像するのは、どのような服を着せるか、どのような歌を与えるか、どういったキャラクターで売り出すのかなどと、アイドル自身の像がいかに成型されるかという点に注目する。ここでのアイドルはまさに偶像であり、プロデュースする者の意志が細部に通っており、その意志によって形成される枠を逸脱することのない、定型的な存在としてある。

 ここにみられるのは、ショー・エンターテインメント(とくにアイドルのイメージ)を西洋芸術的にとらえて「永続的な性質をもち、大きく変化しないもの」と考える発想である。再現性があり、固定的な品質を保持し続けること。それが芸術として、エンターテインメントとしての価値を高めることにつながるという価値意識がみてとれる。ある特定の属性をもった層に訴えかけ、彼らの期待の地平へ寄り添うことを第一義として、逸脱しない。一般的なポップスターのイメージはこういったものだろう。

 

 しかしながら、AKB48という存在は、そのような西洋芸術的な認識では説明することができない。AKB48やその姉妹グループをプロデュースする際、総合プロデューサーである秋元康は、ことあるごとに予定調和を壊せ、予想できるようなものでは新鮮さを失って飽きられてしまうのだ、といった趣旨の発言をする。ならば、AKB48グループにおいては、固定的価値や再現性は当然否定されるものであろう。

 裏を返せば、AKB48をとりまく現象は、流動性・再現不可能性を重視する価値意識に基づいて構成されていることになる。固定的な既存のアイドルイメージに寄り添うのではなく、常に意外性、逸脱、多層的なキャラクターを志向する。それこそが秋元康がAKBメンバーを評するときに用いる、普通の女の子たちというフレーズの内実ではなかろうか。ルックスと内面とのギャップや、ちょっとしたときにみせる意外な言動、趣味に妙な親近感を覚える瞬間、過去に教室という「場」で感じたことのある仄甘い感傷とアイドル消費を連結したともいえる。(ただそれは、次の瞬間や、長くても次の日には何処かへ流れていく、散漫な印象でしかないのだけど。)

 

 考えてみれば、日本の伝統的な美意識においては、どの時間・どの場所においても同じ姿をみせてくれる定型・固定的な造形物よりも、ある時間・空間を共有した者だけに感じることのできる不定型・流動的な作品(華道、茶道、連歌など)が、もてはやされていた。

 そう考えれば、AKB48グループの熱狂的なファンたちが、たとえば握手会という形で、応援しているアイドルとわずかでも空間・時間を共有しようとすることや、サプライズ発表が次々繰り出されて常に変化が演出されることも、その伝統的美意識の流れによって説明できるのではないか。

 実際、AKB48の初期楽曲には、そのような共有され純化していく心情と時間・空間のモチーフが用いられている。

「スカート、ひらり」(抄)

 

女の子には スカート、ひらり ひるがえし

走りたくなる時がある

何もかも捨てて 愛に向かうよ

恋をする度 スカート、ひらり ひるがえし

ハートに火がついたように

私たち 何をしても 許される年頃よ

  少女がある年頃に、恋に情熱を燃やす瞬間があるという、純度の高い感情を歌ったものといえる。また、歌詞から受けとれるのは、その刹那性であり、長じてなお保持することはできないことも読みとれる。

「会いたかった」(抄)

 

会いたかった 会いたかった

会いたかった Yes!

会いたかった 会いたかった

会いたかった Yes!

君に…

(中略)

やっと気づいた 本当の気持ち

正直にゆくんだ

たったひとつこの道を

走れ!

 これも、ある時間・空間を共有したいという感情を繰り返すことで、その感情の強さを示したものといえる。また、歌われるその時点まで気づかれなかった感情が、心境の変化をもたらしたことを併せて示している。

 

 こうしてみると、AKB48は日本人の伝統的美意識に裏打ちされた欲望喚起の装置といえる。ゆえに、AKBがAKBとしての型を保持しつづけるためには、常に変化をつづけなければならないという、アンビバレントな構造がみえる。

 AKB48グループの総合プロデューサーである秋元康は、そのことに対して非常に自覚的である。けれども、それをとりまく人々にはその勇気があるだろうか。あくまで場を消費すること、そのために欲望を純化する装置として「推しメン」を持たされている(とあえて言う)ことを意識しているだろうか。

 AKBのもつ構造に自覚的になり、勇気をもって変化をつづけること。それが、ファンの欲望をよびおこし、AKBというモデルが継続しつづける唯一の方法であることは間違いない。はたして、この先AKBと、彼女たちをとりまく者たちはどのように変化していくだろうか。伝統芸術の意識を通奏低音としたこの芸能装置は、いったいどこへ向かうのだろう。