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仮説:制服とは追憶である

 高校生の制服を盗んで捕まった人の話が、やたら耳に入ってくるので、少しだけ考えてみようと思う。

 

 そもそも、制服なんてものは風景のなかにありふれていて、特別な記号にはなり得ないはずだ。しかしながら、このニッポンでは、とくに、いろいろな欲望をもてあましている男性の界隈では、性的なブランドとして機能しているのだ。なぜだ。

 また、「JK」などという略号が流通するように、高校生女子は、とくに、制服を着ている高校生女子(あるいは、高校生女子のような格好をした「オトナ女子」でもいい)は、ニッポンにおいて特別な価値を付加されているのだ。なぜだ。

 

 少なくともその価値は、量的な希少性ではない。文科省の調べに拠れば、日本国には約330万人の高校生が生息している。約半分が女子だとするならば、全国には160万人くらいの高校生女子がいる。160万人というのはどのくらいの人数かといえば、日本全国で便秘に悩む男性と同じくらいの数(厚生労働省国民生活基礎調査による)だ。

 ちなみに、便秘に悩む女性は全国で320万人(同調査)ということなので、実感的にいえば、便秘に悩む人のふたりにひとりは高校生女子だ。(違う)

 

 ならば、制服の価値はどこにあるのか。

 そもそも欲望を、モノそのものを欲望する、対象そのものを欲望するものと理解するから、かえって誤解が生じるのである。制服を欲望する、あるいは制服を着た高校生女子を欲望する者は、目の前をあるく高校生女子や、目の前に脱ぎ捨てられた制服や体育着を欲望しているのではない。

 彼らが求めるのは、高校生の頃に自分が抱いて、そのまま満たされずに心に留まっている欲望の充足である。目の前にいる高校生女子は媒体にすぎない。その視線が不快なものであるのは、彼が、モノをみる視線で彼女らを眼差すからだ。彼は、制服をまとった彼女らの姿を径路にして、自分が高校生だった頃に抱いた欲望が再起してくるのを感じる。それは、高校生に帰らなければ満たされることはない欲望だ。だから、現実的には決して満たされない欲望だ。帰れない場所へ帰り、それを満たしたいと願う。ここに一種のノスタルジイが生まれる。

 以前にある生徒が卒業間際に言っていた。「卒業する前に、制服女子と並んで下校するというイベントをしておきたかった」と。これが達成されたかは知らないが、されなければおそらく、行為への憧憬は心に留まり続けるであろう。卒業してからみる制服のむこうには、高校生活のうちに成就されなかった何かがまとわりついている。

 

 だから、こう考えるのだ。

 制服への欲望とは、青春への憧憬である。

 満たされた青春を送った者(いわゆるリア充)は、卒業とともに制服も捨てられる。

 そして満たされなかった者は、青春の亡霊となって校門を乗り越え、深夜の教室に忍びこむのかもしれないと。