残業手当はありません

気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

オナニーのふるさと

 自分の欲望の源泉がどこにあるのか。

 ふつう、ひとはどれくらい理解しているのだろう。

 

 現代美術家会田誠の作品に『美少女』というものがある。

 美少女という字をみつめながら、会田が会田自身をこすりつづける動画である。概念で達することができるかという試みだったが、最後は女体を想像して射精したと語っており、文字だけで達することはできなかったという。

 その言が、ほんとうのことであるならば、マスターベーションによって射精しようとするとき、男は、性的な興奮を誘う、何らかの映像を必要とするということだ。文字だけでは性的に興奮できず、言葉だけでは射精できないのだ。

 これについては、私も同様の試みをしてみたが、やはり、最終的には、女性の裸体を描いた図像を使用しなければならなかった。どうやら、おおよそ自慰するときには、性的興奮のもととなる映像・図像(それを直接に知覚するか、想像するかにかかわらず)を必要とするようである。

 では、そうしてイメージを必要とするときに、男たちはどういう基準で興奮のソースを選ぶのだろう。

 たとえば、過去に性的関係を持ったことがある誰かのことを思いだして、性的な興奮を得ることもあろう。まだ、そういった経験のない者であれば、ヴィデオや書籍を用いて、興奮しようとするだろう。しかし、それらに共通していることは、過去もしくは現在において、自分の外部からやってきた何かが、男を興奮させているのだろう。

 

 そして、それを思うとき、私は考えるのだ。

 男たちは、その外部からの刺激を得る方法を、どうやって選択するのか。

 動画なのか、画像なのか。

 三次元なのか、二次元なのか。

 あるいは、文字や言語の助けを借りてイメージを形成するのか。

 

 そのヒントらしきものがあったので、ここに書いておきたい。

 この間、会田誠が1時間ほど Youtube Live でだらだら話をする番組をやっていた。その番組のアフタートークで、オーディエンスと雑談していた際にある言葉を発したのである。

 

 「オナニーのふるさと」

 

 この言葉に、私はたいへん感銘を受けたのである。セックスのふるさとでも、欲望のふるさとでもない。オナニーのふるさとである。対象を自慰に絞っているのである。なんだか、腹にすっと落ちてくる表現である。

 そもそも、オナニーというのは、自身の欲望との対話であるといえる。行為自体には他者を含まない、純粋性の高い行為であると思う。ただひたすらに、自身の快楽と向き合う行為である。そのためには、内面を深く覗かなければならず、より高度な快楽のために欲望の核に到達しようとすることになる。

 そうして達する過程において、自身のかかえる複合的な心理を、たまねぎを一層ずつはがすように解剖しながら、性の原体験へと遡行していくものだと、私には思えてならないのだ。

 

 最後に、個人的な体験を語って終わる。

 僕は、成年向けコミックが好きである。当然、オナニーの主戦力である。

 けれども、ずっと考えていた。なぜ、二次元に転んだのか。

 今回、ようやくそのこたえに近づいた気がする。

 あれはたしか、小学2年生の晩秋だったろうか。官舎(いわゆる団地だ)に住んでいた僕は、画一的な建物群に飽きていた。けれども一方で、その建物たちの裏に植えられた木や、住人たちの菜園にはバリエーションがあることに気づいて、それらを折々、ひとりで見て回ることが好きだった。

 そんなことを続けていたある日、小さな僕は、背の低い木の下に少し硬い紙でつくられた白い本が落ちているのに気づいた。カバーもついておらず、ただ、少し折れた表紙を陽にさらしている。こんなところに本が落ちているのはおかしいな、そう思いながら、本を読むのが好きだったものだから、開いてみた。

 

 女のひとのはだかが、かいてあった。女のひとは、ふたりだった。

 それだけだったら、よかったのに、

 女のひとには、なぜか、うさぎの耳としっぽがついている。

 おしっこの出る穴に、にんじんがはいってる。

 

 よくわからないけれども、腰のあたりがむずむずした。

 なんだかわからないけれど、それを読まなければすまない気がしていた。

 ただ、それを持ってかえってはいけないとわかった。

 

 

 それが、百合エロうさみみ本だったと理解できるようになるのは、小学5年生くらいになってからだった。ちなみに、そのエロ本は3日くらいそこに放置されていたあとに、雨が降ってドロドロの紙切れになった。

 たぶん、この体験が「オナニーのふるさと」というやつなのだろう。

 自分の想像できるレベルを無理やりに超えさせられてしまうような、性的なものと初めて、かつ、ある種の暴力性を帯びたかたちで遭遇した体験が、性的欲望の核を作ったのだと思う。そうして、そこへ、遡っていくのだ。

 今でも、ねこみみやうさみみをみると、心の底の方をぐっとつかまれるような感じがする。たいへんよろしくない。それだけで、理性のたがが外されて、どうにも抗えなくなるようで、怖さを覚えるのだ。

 

 

広告を非表示にする