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ウェイ系というあり方への疑問

 どこから話をはじめればいいのか迷っている。いわゆる「ウェイ系」というあり方についての疑問が、自分の内側でどんどんふくらむので、なにかまとめておかなければと思い、いま、これを書いている。

 これまで、そういった類の人たちには近づかないようにしてきた。また、今後もそういう人には近づかないだろうし、そういうふうになろうとする人に対して、内心で軽蔑するだろうことを確信している。

 しかし、自分がなぜここまで「ウェイ系」というあり方を受けいれられないのか。

 それは、仄暗い水の底に沈んでいるような、私自身の過去からくる嫉妬のようなものか。

 それとも、ある種の軽薄さを帯びているにもかかわらず、世間から一定の認知を得ていることへの羨望か。

 春になるといっせいに桜が咲くように、あるいは虫たちが土のなかから出てくるのと同じように、新入生を迎えて街の情緒を塗りつぶすウェイ系の歓声を聞く、そのまえに、一応の結論を出しておきたいと思う。ごく個人的な思考のメモとなるので、少々雑駁になることを許してほしい。

 

 そもそも「ウェイ系」とは何か。

 岡田斗司夫が「リア充とは行動様式である」と、どこかで話していたけれども、おそらく「ウェイ系」もそれと同様に、一種の行動様式であると考えられる。

 特に、一部の大学生たちが「それな」「ワンチャンある」などの語彙に象徴される、根拠の薄いゆるやかな連繫と、一種の無責任さに象徴されるように、状況や都合によって判断の基準を恣意的に変化させる機会主義的な発想をもって、自らとその周囲の行動を支配しようとする行動様式であると認識している。

 

 それは様式であって、属性ではない。

 

 属性ではないから、服を着脱するように変化することができる。

 その瞬間の利益を最大化することが目的であり、他者との連繫も、所詮は、利益の最大化のために利用することが目的である。だから、共有していた何かしらのイベントが終われば、まるで何もなかったかのように、その関係性は疎遠化する。その連繫は時限的なものであり、表面的なものにすぎない。

 このようにいわれて、いわゆる「ウェイ系」の人には不満もあるだろう。けれども、事実「ウェイ系」というあり方は、非常にビジネスライクな関係性だと観察している。

 一定の利益を得たならば、焼畑農業のように次の農地へと移動していく。そこに、ビジネス以上のつながりを期待したなら、目の前に残されるのは焼け野原と、置きどころのない他者への愛着だけ。そういう根のない、刹那的(にみえる)発想にいだく寂しさが、彼らに対する疑問を呼びおこすのかもしれない。

 余談だが、大学内のサークルなどは、以前ならば「属性」として機能していたと思う。けれども、最近はそういった場所にも「ウェイ系」「ウェイ化」の波が迫っているようでもある。閑話休題

 

 ところで「ウェイ系」の人々は、自身が無属性であることをむしろ是としている感がある。

 特定の属性をもつことを忌避したり、確たる精神的基礎をもつことを嫌悪したりしている。人間関係においては、状況に応じて変容することが正義であり、状況に応じられない人間は愚かであり、排除されるべきである。そのような考えをもっているようにみえる。

 だから、人と「適当に」つながれない者たちを「コミュ障」と呼んだり、あるいはそのように自称したりする。対人関係において、何かしらの「重さ」を帯びることは、すなわち、コミュニケーションに障害があるように表現される。求められているのは「軽さ」である。

 特定の人との「縁」などという考え方は旧時代のものであって、説教くさい、埃をかぶった価値観なのだと、彼らの姿をみるたびに感じる。利用価値がなくなったなら、さっさと「切る」のが得策である。また、そういった判断は、自分が一方的にできるものだと考えているようだ。

 そして、一度「切られた」者が、その関係に固執することは格好の悪いことであり、別の場所へと移動することが当然である。そういう道理が「ウェイ系」界隈を支配しているのだ。

 そこで、誰が「切る」権利を持っているのかという問題が立ち上がるのだが、今回は、あくまで「ウェイ系」に対する私の個人的疑問がどこからやってきたのかをまとめることが目的なので、割愛する。

 それでは、あらためて確認するが「切る」「切られる」の判断は、何によってなされるのか。もちろん、思想や信条の違いによってなされるのではない。むしろ、特定の思想や信条が前景化した時点で、回線はブロックされるのだ。

 信条や思想は、利用価値の有無をこえたところにあって「ウェイ系」の理屈では処理できない。そういったものは、すべて、ゆるやかな連繫を阻害するものとして「最近、あいつ、なんか感じ悪いよね」とだけ処理される。

 思想や信条、哲学は、歴史的な堆積を前提とする。そして、その堆積を分有あるいは共有することによって理解されるものである。だから、それらに理解を示すということは、容易に着脱できない属性を知ることになる。ゆるやかでない関係に身をおくことになる。属性という概念を知ることは「ウェイ系」でなくなることだ。そして「感じ悪い」側の人間になることだ。

 

 ゆえに「ウェイ系」でいることは、他者への想像力を意図的に喪失することと同値になる。

 

どのようにして他者や、他者の思想や信条が形成されているかを想像せず、また、自身がその他者と共通する部分を持っている蓋然性を顧慮しないことである。

 さらにいうと「ウェイ系」という行動様式は、自分と異なる行動様式を持っており、ひいては自分の立場を解体する可能性があるものへの攻撃性と不可分である。たとえば、自分のオタク性を隠蔽するために、かえって露悪的にオタクカルチャーを揶揄してみたりすることもあるだろう。

 オタク性が顕現したら「ウェイ系」の仲間でいられなくなる。オタクを自認することは精神性や欲望と結びついていて、人格と不可分な「属性」だからだ。「属性」は選択的なものではなく、それ以外のものにはなれない宿業のようなものだ。これが前景化すると、それ以外の存在にはみられない。自在に変容することができなくなる。

 だから、仮に本質的にはオタクであっても、「ウェイ系」であろうとするなら、それが前景化することは丁寧に回避されなければならない。カメレオンのように「擬態」しなければ「ウェイ系」でいられないのだ。

 

 さて、まとめへ移ろう。

 はじめに「ウェイ系」学生の機会主義的行動が、今回の疑問の出発点であることを確認した。彼らは時限的でビジネスライクな人間関係を構築しており、人間の価値を利用価値の有無によって計量していると結論づけた。

 つぎに、その行動様式の遂行を阻害する、特定の属性をもつ人々に対する攻撃性を確認した。関係性への固執、思想・信条・哲学などは、変容によって状況への適応をおこなう「ウェイ系」の生存原理を揺るがすものであり、そういうものが「ウェイ系」界隈では許容されないと確認した。

 これによって、結果として「感じ悪い」対象を徹底的に排除する、他者への想像力を喪失した層が形成された。

 そうして、このような行動様式を是とする態度に疑問を抱き、また、このような人々に、自分や親しい人の生存が脅かされることへの不安が、私の「ウェイ系」に対する疑問の根源にあることを確認した。軽薄さが価値であるなどと、認められるものか。

 

 ここに書いたことに、一般的な価値はないだろう。「ウェイ系」の人々に対する、個人的な嫌悪と軽蔑とを書き殴ったものとされても仕方ない。さらには「ウェイ系」という枠自体が何者かによって創作されたものだという懸念に対しても無批判だ。だから、この文章の射程はすごく短い。

 けれども、これだけ世間に「ウェイ系」に対する疑念が表明され、他方では、この行動様式が意識的であるか無意識的であるかに関係なく、一定の層に支持されているという事実がある。そういったことについて整理するきっかけになればと思い、この文章を書きつけた次第である。