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『君の名は。』をうまく語れないので、あらためて『言の葉の庭』を観てみた。

 『君の名は。』を、とりあえず三度観た。けれども、どういう風に語ればよいのかよくわからないので、補助線にするべく『言の葉の庭』をあらためて観た。せっかくなので、その感想をぼんやりと書き残しておく。

 

 雨は、常に遅滞と留保の使者である。

 人の思惑通りに動くことはなく、人の営みを途絶させ、強制終了させ、足留めをして、妨害して、閉じこめる。人と人との交通を阻害して、河のように二者の境界を顕在化させる。

 しかし、他方で人を分かつばかりでなく、防壁としての機能も持っている。

 その中に佇む者にとって雨は、外部よりやってくる痛みから自分を守るシェルターであって、『言の葉の庭』にあっても、まだ育ちきらないタカオの夢と、傷つき歩くことさえままならなくなったユキノの心を守る。

 雨は、世知辛い街の雑音をかき消し、無遠慮に注がれる視線を遮る防人でもあった。

 

 新海誠は『ほしのこえ』以来、人の思いが伝達されることの不確かさ、メッセージの遅配や誤配、通信の途絶や射程の不足を描きつづけてきた。

 『言の葉の庭』でも、雨を象徴的に用いながら、コミュニケーションの不全は単なる不調ではなく、迂回を強いられることによって、かえって、ある種の豊かさを持つものだと我々に訴えてくるのである。

 

 思い返してみれば、新海誠の表現では「遅れ」や「ズレ」を問題にすることが多い。

 先述の『ほしのこえ』では、宇宙と地上との間で、超長距離メールサービスを用いてやりとりをする、ミカコとノボルのコミュニケーションにおいて、タイムラグとノイズが問題になった。

 『雲のむこう、約束の場所』においては、約束の履行/不履行、あるいは約束の保留と遅延の問題が、通奏低音的に世界の空気を作っている。

 『秒速5センチメートル』に描かれた「渡されない手紙」「送るあてのないメール」や、どれほどに「メール」のやりとりを重ねても、一向に関係の変化を生まないコミュニケーションは、永遠に重なりあうことのない二者の存在を示した。

 そういった、重ならないコミュニケーションや、決定されない関係性の表現に、ある結論を出したものが『言の葉の庭』だと位置づけることはできないか。そして、ここまでの営みが消化されたところに、『君の名は。』が立ち上がってきたのだろう。