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「あいつさえいなければ」というしかないのか(第55回弥生賞のこと)

 板東英二がよく「王と長嶋さえいなければ」ということがある。V9巨人を象徴する、というより戦後プロ野球の神であるふたり。そのような他を圧倒するような存在と違う時代にうまれていれば、自分の運命はまったく違ったものになっただろうと、冗談めかして(しかし、ときには本気で)いう。

 人間の場合は、人生のステージがいくつかあって、それぞれ節目のタイミングで再スタートすることが可能だ。プロ野球選手の例でいえば、現役時代に優れた成績を残せば、監督やコーチとしてのキャリアが開かれる。そうでなくても、現役時代になんらかの人気を獲得できれば、野球解説者やタレントなどの道がある。思うような成績が残せなくても、命までとられることはない。引退した後のセカンドキャリア構築は一般的な就活をするよりたいへんだろうけれども、即死というわけではない。なにより、ひとりの圧倒的な選手の存在が、同じ世代にうまれた他の野球選手のキャリアを完全に断ち切ってしまうようなことはない。

 

 競馬の場合は違う。日本におけるクラシック競走の成立背景には、軍馬改良と馬産奨励があり、競走自体が優秀な種牡馬繁殖牝馬の選定を目的として整備されたものだ。ゆえに、同じ世代に圧倒的に強い競走馬があらわれることは、すなわち繁殖馬としてセカンドキャリアを送る機会が大きく減少することを意味する。

 それでも牝馬ならば、どんなに優秀な馬でも1年に産める仔馬は1頭であるから、生産のためには質だけでなく、一定程度の量も確保しなければならない。ゆえに、繁殖馬として残る牝馬の数は牡馬よりも相当に多い。

 種牡馬となると話は違う。人気のある種牡馬は繁殖シーズンに200頭近い種付けをこなす。だから、競走馬生産のためにはひと握りの優秀な馬がいればよくて、牝馬ほど多くの馬を繁殖のために残す必要はない。競走馬としてのキャリアを終えた牡馬のうち、種牡馬になれない馬はどうなるのか。乗馬として供用されればまだよい。しかし、それ以外の馬は……。

 自分たちの世代からずば抜けて強い馬が登場してしまうこと。それはすなわち、タイトルが独占され、種牡馬としての価値が独占されることを意味する。他方で、同じ世代に生まれた他の馬たちにも存在したかもしれない、繁殖馬としてのセカンドキャリアを消滅させるものだ。

 ビゼンニシキにとってのシンボリルドルフメイショウドトウにとってのテイエムオペラオーウインバリアシオンにとってのオルフェーヴル……。弱いお前がいけないのだ、そういわれてしまえばそこまでだ。けれども、やはり「あいつさえいなければ」という思いはどこかに残る。

 

 ダノンプレミアムは、そんな「あいつ」になる可能性のある馬だ。すごくいいヨーグルトの名前と間違われるのも、きっと今のうちだけだ。ディープインパクトのように、競馬を観ない人にさえ、その存在を認知されるようになるかもしれない。

 昨年末の朝日杯フューチュリティS。その勝ちぶりは圧巻であった。ナリタブライアングラスワンダーなど、過去に朝日杯から歴史的名馬への階段を上った馬たちにもひけをとらない圧勝劇だった。

 そして、今回の弥生賞である。 ワグネリアン、ジャンダルム、サンリヴァルらが激しく追っているのを尻目に、直線では一頭だけ馬場のよいところを選んで進み、鞍上も最後は前進をうながすだけ。今のままでは、他の馬たちはとてもかなうものではないと思う強さだった。それは、1984年の第21回弥生賞を勝ったときのシンボリルドルフの走りによく似ていて、着差以上に能力の差をみせつけたものだった。

 クラシックロードのたたかいは、生存のための闘争である。

 弱き者は淘汰され、勝ち残った者だけが後代の血統表にその名を残すことができる。皐月賞、ダービー、そして菊花賞まで、生命力の削りあいをしのいだその先に、栄光の脱出口がある。ダノンプレミアムは、他のすべての存在を忘却の彼方へ押し流してしまう、そういう大波になる馬なのかもしれない。