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「信」のはてに(第157回天皇賞、あるいは岩田康誠騎手のこと)

 自動車レースのレーサーたちに「レースは怖くないのか」と問うと、きまって次のようにこたえる。レースのときに周りを走るのはすべてプロのドライバーであり、運転の下手な人がいないので一般の人が想像するほど恐怖はない。むしろ、普通の道を走っているほうが、想定外の運転をする人が多いので危険なのだと。

 レーサーたちは競争の面ではライバルであるが、他方で同じ生業を営む同僚でもある。その技量を信頼しているからこそ、存分に競えるということもあるのだろう。

 

 岩田康誠という騎手がいる。アグレッシブな騎乗スタイルで、狭い進路を縫うようにして馬を走らせ、幾度も大レースでの勝利をつかんできた。一方でインタビューなどから垣間みえる姿は、その大胆な戦法とは裏腹であり、繊細で神経質そうな内面を想像させるのである。

 彼の騎乗をみると、弱気に転びそうな自分の心を鼓舞するようにあえて難しい道を選択しているようにさえみえる。ここで逃げたらずっと逃げつづけることになる。だから、突き進まなければならないと、何かによって強迫的にそれを選択させられているようでさえある。

 それは、岩田が「信」の人だからなのだと、わたしは勝手に思っている。

 傍目には無理な進路にみえるイン突きも、周囲の騎手に対する信頼と岩田自身の騎乗技術への確信、そしてパートナーである馬にすべてを信託する心がそれを選ばせているのだ。

 馬1頭がギリギリ通れるという狭い空間にパートナーを導くには、隙間を塞がれるのではないかという恐怖、他馬がヨレて進路がなくなるのではないかというおそれ、馬が窮屈な進路へ進むことを拒むのではないかという不安、それらをすべて振り払って勇者の選択をしなければならない。その先にようやく栄光のゴールがみえる。

 

 そんな岩田に対する批判は、けっして少なくない。

 コースどりが強引すぎて、危険なレースが多くはないか。馬の扱いが荒く、結果的にお手馬の故障が多くはないか。勝負への執念が強すぎて、周囲を危険にさらしてはいないかなどと、レースの安全や馬の安全にかかわるものが多く聞こえる。

 実際のところ、その批判があたっているのかどうか、競馬関係者ではない自分には知るすべがない。また、そうみえる部分はあっても、私は岩田への批判に同調できない。なぜなら、この現象を裏側の視点からみたら次のようにもいえるからだ。

 

 岩田康誠が厳しいコースどりをするのは、同僚騎手の技量を高く評価しているからだ。

 岩田康誠の騎乗馬に故障が多いというなら、馬の限界を超えた力を引き出したからだ。

 岩田康誠が勝負に強い執念をみせるのは、それが最後の騎乗になるかもしれないからだ。

 

 岩田康誠は、信用や信頼を非常に重くみているのだ。人と人との信用や信頼、人と馬との信用や信頼。インを突いて勝ちきることは自身の技量を証明することであると同時に、他の騎手の技量を信じなければできないことでもある。自分の動きを他の騎手が捌ききれないとみれば内を突く勇気は萎える。判断を誤って無理に内を突いて他馬に迷惑をかければ、次は入れてもらえなくなる。

 一度でもつまらない騎乗をすれば、その馬を降ろされてしまう。人も馬も自分に応えてくれなくなる。

 そう思えば、次のことなど考えられるはずがない。一戦必勝、条件戦でもGIでも関係ない。信用、信頼を失わないために精一杯に乗る。岩田にとって毎日、毎レースが最終回なのだ。彼の背中につきまとう悲壮感は、そこから立ちのぼっている。

 

 最後の直線、岩田は自身のすべてを賭けて馬を励ます。必死に馬を追うその姿は決してスマートではない。しかし、それに応えて馬たちは、ときに自らの限界を超えるほどに死力を搾って走る。あるいは忘れていた闘志をむき出しにする。

 岩田の「信」を意気に感じて、自らのいのちを速さにかえて走るのだ。

 レインボーラインは、盾を獲ることでこれを証明した。執念のイン突きでシュヴァルグランを斬り落としたその末脚は、決死の覚悟としかいいようのない気迫にあふれていた。