残業手当はありません

気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

ダービーと私(優駿牝馬の反省と東京優駿【日本ダービー】のこと)

 ダービーの日は、自分の競馬観を試験されるような気分になる。

 この世代の新馬戦が始まってからの一年、自分がどのように競馬を観てきたのか。ひとレースごと、一日ごと、一週ごと、一開催ごとの蓄積が正しかったか、誤りだったか。揺るがぬ信念があったか、それともこの期に及んで判断に迷うのか。

 

 先週は、青春の思い出を散らしたような気分で帰った。

 アーモンドアイは完璧だった。誰も近づくことのできない絶対女王の誕生をこの目にみた。清々しい気分だった。他方で、あの強さにふれてなお、ラッキーライラックへの愛が変わらないことを誇りにも思った。女王に一矢報いるべく、リリーノーブルは生命力の限りに駆けたが、及ばなかった。わたしの手にはわずかな紙片が残るばかりだったが、誇りは守られたと思った。

 

 ある女性に、ダービーが嫌いだといわれたことがある。

 ダービーが近づくと、誰も心をうばわれてしまったかのようにダービーのことばかり話す。それと関係のない日常はつづくのに、その一瞬の花火を永遠のものであるかのようにいう。日々の糧が大切なのに誰もそれを顧みない。そして、ダービーが終わるとしばらく脱け殻のようになって、わたしの呼びかけにも応えなくなる。ダービーの前後、わたしは孤独になると。

 ダービーとはそういうものだ。ひとが心を奪われ、心を尽くし、全霊をもってむかっていく。人生はその日のために、すべてはそのレースのためにある。過言ではない。来年もダービーがあるから、われわれは生きる。あらゆる悪意が、あらゆる絶望が、あらゆる負のクオリアが世界に拡散しようとも。毎年、ダービーがくる、それだけでこの世界に生きる意味を見出せるのだ。

 

 ダービー馬と出逢う、ダービー馬を見出す。そのことに、すべて競馬にかかわる人の思いは集約される。だから、ダービーは特別な意味をもつ。ある人は理論を構築し、ある人は記憶をたどり、またある人は過去の経験を重ね、ひたすらにダービー馬を求める。

 あの日、あのレースに勝ったことが、かえってダービーからこの馬を遠ざけたのではないかという後悔。あのレースに使えなかったから可能性が生まれたのかもしれないという予期せぬ幸運。さまざまな要素に心をめぐらせ、どこかに出逢いの予感があったはずだと思いかえしながら、見果てぬダービー馬の影を追いもとめているのだ。

 

 今年のダービー馬はどこにいるだろう。どこかにその片鱗をみることはなかっただろうか。記憶をたどりながらそう思えば、寒い冬の一日が思い出されてくる。府中でみたかすかな光に、ダービーの夢を思ったのだ。

 

◎オウケンムーン

エポカドーロ

▲ダノンプレミアム

△タイムフライヤー

△ブラストワンピース

△ジェネラーレウーノ(迷ってやっぱり足すことにした)

 

 府中をさまざまな産駒で彩ったトニービン、府中に愛されたジャングルポケットジャパンカップウオッカにハナまで迫ったオウケンブルースリ。本馬にいたるまで、代を重ねるに従って細くなりながらも繋がれてきた血の花を、再び府中に咲かせてほしいと思うのだ。それがたとえ、懐古主義との批判を受けようとも。時は流れ、しかし、歴史は繰り返す。

 相手はエポカドーロである。ディープとキンカメに支配され続けた日本の競馬には、新たな風が求められている。サンデーからディープへの流れがすべてを支配した時代は終わり、次の黄金期はオルフェーヴルからのラインにやってくることを期待してもいる。レースがどのような展開であったとしても、皐月賞を勝った馬は勝つだけの能力を備えていたから勝ったのだ。わざわざサニーブライアンの例をあげなくても、説得力はあるだろう。

 ただ、ダノンプレミアムの圧倒的なパフォーマンスは無視できない。弥生賞を勝ってもなお、ほとんど本気で走っていないであろう点は強調すべきところでもあり、落とし穴にもなりうる。これまでのレースで気力を絞り切るようなレースをしていない馬が、はたしてダービーのように死力を尽くす闘いで勝ち残れるのだろうかと疑問に思う。

 タイムフライヤーの立て直し、ブラストワンピースの潜在的な力にも期待している。タイムフライヤーは広いコースでこその血統だし、本格化はまだまだ先のはずだったのだ。それにもかかわらずホープフルSを勝てたのは僥倖だった。そのおかげでダービーにこられた。ブラストワンピースも毎日杯を勝ったことで、余裕のある臨戦となった。いずれにも風は吹いている。ジェネラーレウーノは、スクリーンヒーローから高い心肺能力を受け継いだ。彼もまた府中で輝く血をもっている。

 

 ともあれ、ここにやってくるまで、ゲートに入るまででも大変なことなのだ。

 「選ばれし18頭の優駿」の文言自体はすっかりクリシェになった。しかし、そのことがダービーに出走することの栄誉、そのレースに勝って栄光の跡に残ることの価値を下げることはない。

 毎年あたらしく、正しく、その選抜はおこなわれている。

 クラシックロード。そこへふさわしい者たちを導き、歩ませる神が府中の欅に宿っている。そして彼は、ようやくここへたどりついた者たちに、呼びかけるだろう。

 

 「ダービーへようこそ。」