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気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

奴隷になっていないか

 書きたいことはたくさんあるのだけれども、最近は自分のなかで話題が発酵するのに時間がかかっているために、なかなかまとめることができない。ちょっとした気づきはすぐにつぶやいてしまうから、半生の思考そのままで流れ去ってしまうことが多い。つぶやきたい、早く誰かにこの気づきをしらせたいという思いにとらわれている。Twitter の奴隷、わたしはそういうひとりなのだろう。


 一年がたった。職業柄、年のおわりは3月にきて、4月から新たな一年がはじまるという感覚が強い。自分の誕生日も3月の終わりにくるものだから、その意識はさらに強くなる。卒業していった生徒のことを思うのもこの時期だ。彼は、彼女は、今頃何をしているだろう。再度大学受験に挑んでいるあの生徒は、大学に合格しただろうか。連絡がほしい。こちらから連絡するのはなんだか気がひける。連絡がないということは、うまくいかなかったのだろうか。そんなことを思いながら悶々とするのもこの時期だ。卒業生はもう旅立ったのだから、自分のことなどは忘れてしまっていい。そう思っているのに、彼ら、彼女らの存在を忘れることができないのはなぜだろう。

 大学生になる。あるいは社会で働くようになる。そうして長じるにつれてひとはどんどん自由になっていくはずだ。その一方で高校生のときがいちばんよかった、いちばん自由だった、いまはしがらみが多すぎる。そういって、なげく人やかなしむ人がみられるのはなぜだろう。

 


 わたしたちは、奴隷になっていないか。

 


 最近の大学生は、出席が厳しいらしい。許された回数以上休むと成績がつかない、だから休める回数をカウントしておいて計画的に休む。あるいはGPAというものがつけられて、全科目の成績が平均化されて学生の勤勉度が評価されるという。間違っていると、わたしはおもう。大学での学びは平均化して数値にあらわすべきか。高校までの学びと全く変わらないではないか。平均をよしとする学びでは開花しなかった歪な才能や尖った感性をとりこんで、豊饒なる知を育むことこそ大学という場の価値ではないのか。

 現在の大学は有用性の奴隷となり、そこに学ぶ学生も有用性の証書たる単位の奴隷になってはいないか。役立つことだけを考え、役立つことだけを学び、役立つ技術だけを獲得しようとするあり方。あるいは単位の取得を第一義として、いかに効率的に、いかに苦痛なく、いかに就職活動につなぐかだけを考えて学ぶあり方。奴隷根性以外のなにものでもない。それで君の精神は自由か。


 自由ではメシが食えない。単位がなければ卒業できない。ごもっともだ。

 けれども、それに支配されている人生は幸せか。有用性を主人として、自らを奴隷としてすごす人生を「生きている」といえるのだろうか。そのうちに自らを奴隷とすることにも苦痛を感じなくなる。それをゾンビという。ゾンビになってしまったらもう戻れない。生きながらにして死んでいるのだ。


 そうなるまえに、1年間のふりかえりをしてほしい。

 桜がさいたら、また忙しい日常のはじまりだ。