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メインストーリー、なんてないのさ

 以前、有用性の奴隷になるなという話をした。

 役立つことにとらわれすぎると、結果的に奴隷根性が身につくという話だ。

 


 関連して、人生にはメインの出来事とサブの出来事があるのかということを考える。

 観測の範囲が狭く、今よりももっと想像力の射程が短かったころは、入学や卒業、就職、結婚、出産、子どもの入学や卒業、そして親の死などを経て、人生の物語が構築されていくなんてことをわりとナイーヴに考えていたものだ。

 けれども、今ならわかる。人間の歩みはそんなに平坦だったり、簡単に類型化されたりするような単純さをもたないということに。いわゆる「普通」のイベントをこなしていくことが、必ずしも幸せの証明ではないこと。「逸脱」してしまった人たちが、そうして「普通」からこぼれてしまったことについてそれほど痛みを感じていないことを知る。

 メインイベントだと思っていたことが、実はあまり記憶に残らないというのはよくあることだ。結婚式当日のことよりも、その日に至るまでの準備で散々もめたことの記憶のほうを鮮明に覚えている人は多くいる。高校時代をふりかえれば、授業のことや試験勉強そのものよりも、部活のない放課後にみた教室を真赤に染める夕陽だったり、試験勉強の終わった後の妙な疲労感とともに帰る道のだらだらと下る坂だったりを思い出す。

 

 だから、強い口調で述べておきたい。

 人生にメインストーリーなんてものはない。あらすじめいた説明で自分を紹介されることほど、むなしいことはないだろう。

 

 誰がいっていたのか忘れてしまったが「人間は結末がわかっていても、そのプロセスを味わいたい生き物なのだ」という。その最たるものがセックスであるが、多くの人間はそれをすることに大きな興味を示し、ある者は他人がどのようにそれをしているか興味をもち、またある者はそれをやりたいという思いをもてあまして悶々としている。

 アイテムを獲得したという結果だけに価値があるわけではない。あらすじとしてまとめられるような内容だけに価値があるわけではない。むしろ、そういう大きな枠や大きな筋からこぼれてしまった、そういうものにより大きな価値があるのではないか。