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俗情にあらがえ

 人間の社会は、人間が他者に対する善意をもつことを前提に設計されていて、あるいは、社会全体の善意に対する信用をどれだけ高められるかが、社会運営の円滑さを決定する。ゆえに、高度に社会化されたと自認している社会は、相互の信用度が非常に高いため、ともすれば他者の悪意を察知しづらくなる。そうなると、圧倒的な悪意や理不尽にさらされたとき、弱く、脆い。

 

 しあわせだった、あかるかった世界が、一瞬にしてくらやみにのみこまれるのはそのせいだ。

 

 そうして、こころが暗闇にとざされたとき、われわれは悲劇の原因についてわかりやすい説明をもとめる。かなしみの源泉、くやしさの起源、くるしみの元凶、それをもともと潜在していた人々の悪意と短絡させることで、あたかもその敵が初めからそこにいたかのような錯覚をうみだす。

 たとえば、大きな災害が起こったときにある国にルーツをもつ人々が中傷されたり、ある特定の政党が非難されたりする。それは、災害などによって、こころやからだに傷を負った人々が、そのやり場のない負の感情を吐き出す場所を求めていて、乗じて「わかりやすいシルシ」をもった誰かや何かを対象として選び出し、そこにネガティヴな感情が集約されるように仕向けるのだ。

 その感情を誘導する悪意は、正義のような、善意のような姿をして、暗闇に溺れそうなわれわれに近づいてくる。自分たちの導きにしたがえば、あの悪夢に戻らなくてすむよ。美しい未来がまっているよと甘い言葉をささやく。素朴な感情に訴えることばで。「〇〇をぶっ壊す」とか、威勢のいいことをいいながら。

 

 彼らは、われわれに俗情との結託を唆す。

 

 俗情という言葉が強すぎるというならば、生活感情といってもよいだろう。凶悪犯罪者には裁判などいらないとか、ころころと名前や立場を変えるような日和見的な態度は不誠実だとか、「常識的に考えれば」「ふつうならば」などと、素朴な心情に寄り添うことばは人のこころに入りやすい。けれどもそれは、一見普遍にみえて、実際にはその時々の情勢や社会的勢力の強弱によって、いかようにでも変更される。正義とか真理というものとは遠い、一時的かつ相対的なものだ。

 そもそも「常識」などというものは、同時代における社会的勢力の強い者たちが、相対的に弱い者に押しつける一過性の規範ではないのか。ここでの無批判は自由喪失の第一歩である。

 

 人々が俗情と結託するとき、偽の悪意がつくりだされ、より大きな悪意が隠蔽される。

 

 深いかなしみにくれるとき、人はなにかにすがりつきたくなる。そこに、その思いにつけこんで不当に富や力を得ようとする輩があらわれる。悪意が信じられない速度で世界に満ちていく。これは避けなければならない。

 われわれは、かなしみ、くやしさ、そのなかでこそ、善意を信じなければならないのだ。何度裏切られようとも、いたずらに害意や悪意のあることをおそれてはならないのだ。究極の悪意は、むしろそのおそれにつけこむ機会を狙っている。悪意に悪意をもって対抗しては、俗情にとりこまれる。激情は新たな痛みを生み、あったはずの輝かしい将来を完全になくしてしまう。

 本来的に善意とは、何かを劇的に変化させようというものではなく、わずかずつでも苦しみや生きづらさを取りのぞいていこうという、ある意味では保守的なありようである。

 深いかなしみやいたみに寄り添うにふさわしいこころは、大きな声をあげて人を鼓舞することや、誰かを害したり排除することで立場を守るものではない。むしろ、さざなみのように静かに、しかし、たしかにとどく鳥のさえずりのような呼びかけである。それぞれの苦しみの源泉と向きあいながら、誰もが無事であることを希うこころである。この善意が失われない限り、われわれは大丈夫だ。

 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

 憲法前文にあるような相互の善意でこの世界が満たされるように。苦痛の総量が少しでもゼロに近づくように。人間の本質は善意であると信じられる、そういう社会であれという思いを強くする、2019年7月20日の夜である。