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鎮静剤としての競馬

 正気を失いそうでいてギリギリ発狂せずにいられるのは、毎週の競馬があるからだと思っている。競馬場に行くことはかなわないけれども、かろうじてでも桜花賞が行われ、皐月賞も施行される流れであることに安堵している。

 ふたつのレースは競馬ファンが晩春をかみしめ、初夏の府中、淀へと気持ちをむけるために欠かせない。競馬ファンの四季は競馬番組表とともにあるのである。

 


 桜花賞は、今年も女の子が強いなと思わせる結果となった。2歳女王レシステンシアを、後方組からただ一頭伸びてきた、天才少女デアリングタクトが最後に差し切るという劇的な幕切れであった。このために開催が維持されてきたといっても過言ではない。

 そもそも、競馬の開催を維持するということは、競走馬たちのファミリーヒストリーをつないでいくことと同義なのだ。シーザリオデアリングハートの孫である彼女が、祖母たちの忘れ物を無事に回収できたのも競馬が続いているからだ。

 


 レースに出なければ勝つことはできない。

 レースが行われなければ、出走することもできない。

 レースのあることはあたりまえでなく、それ自体がひとつの奇跡のようなものなのだ。

 


 競馬とむきあうとき、この世界のあらゆるものが偶然に満たされていることを思う。

 たまたま内枠だったから、あるいは外枠だったから。たまたま雨が降ったから、あるいは晴れていたから。たまたま騎手が乗れなかったから、あるいは空いていたから。そういうところから派生して、それぞれの人生まで考えてしまう。

 たまたま辞める人がいてその欠員補充が必要だったとか、偶然に担当替えがあったためにうっかり出会ってしまったとか、うっかり飛行機に乗り遅れたおかげで助かってしまったとか。もともとからわれわれは、誰かの思惑だけでは決まらない何かに振り回されながら生きているのではなかったか。

 


 それを毎週、競馬を通じて確認しているからこそ、こんな状況のなかでもなんとか踏みとどまって人間をやれているのだと思っている。