11月の菊花賞が好きだった。晴れていても寂しく、雲が出ればうす暗い、冬の訪れさえ感じさせるような冷たい風の吹く淀こそ、菊花賞にふさわしいと思う。
今年の菊花賞はそれに近い。10月25日という現行の番組では最も深い位置になるだろうか。低い位置からさしこむ秋の陽に照らされて、自らの影を追う、もう少年ではないサラブレッドが3000mという未踏の距離を(といいながら、昔は嵐山Sを走って、距離をひと足先に経験して、一周目の下りで先走ってしまう他の馬をあざける奴もそこにいたのだが)駆けていく。
菊花賞を勝った馬は、好きな馬ばかりだ。
ライスシャワー、ナリタブライアン、マヤノトップガン、セイウンスカイ、ナリタトップロード、マンハッタンカフェ、ザッツザプレンティ、オルフェーヴル、ゴールドシップ、エピファネイア……
菊花賞を勝つためには、賢さと強靭な精神力が必要だ。そして騎手との「人間関係」が構築されているかどうか、そこが鍵になる。
的場均、南井克巳、田原成貴、横山典弘、渡辺薫彦、蛯名正義、安藤勝己、池添謙一、内田博幸、福永祐一……
人馬が競走を通じてこれまでにしてきた、菊花賞に至るまでの対話がこの舞台では試されるのだ。
さて、コントレイルの三冠が期待され、また一部の人には確信されている今年の菊花賞である。もちろんコントレイルと福永祐一だけでなく、他の人馬も充分に「対話」を重ねてこの舞台に臨んでくるだろう。
その上で、菊花賞を勝つに相応しい知性と、身体の苦しみを堪えて二度の坂越えを闘いぬく烈しい闘志をもつ者は誰か。
いま、ここに集う者たちの過去レースを繰り返し観ている。テープが擦り切れるほどという喩えが通用しなくなってから随分な時間が流れたが、気分としてはそのような思いである。
そんななかでふと気になって、1992年の京都新聞杯をみた。ミホノブルボンが勝って、杉本清が「三冠に向かって視界よし」といったあのレース。4コーナーでブルボンの真後から追い出して、彼我の差を測るように走る不気味な影があった。
当時、秋に行われていた2200mの京都新聞杯。中2週で本番という状況で、あと3週間の後、さらに800m距離が長くなったとき、どうすればこの差を逆転できるか。それをシミュレートするようなレースをした彼らは、はたして菊花賞を勝った。
今年、そんな馬がいたような気がする。そう思って、もう一度今年の神戸新聞杯をみる。直線最後に、一頭だけ出色の脚で追いすがる馬の影がみえた。
ヴェルトライゼンデである。そう、池添謙一である。
池添謙一は、嫌われる勇気のある男である。大本命を退治して、競馬場の空気が凍る。そのことに悦びをおぼえる男である。ざまあみろと、見返してやったぞと、ゴール板を過ぎた後に叫ぶことのできる男である。
他方で、好機まで我慢のできる男でもある。逸らない、焦らない、最後まで引き絞った渾身の一撃を怪物にたたきこむことのできる男である。
その男の思いに導かれて、今度こそは世界へ雄飛し、われわれは凱旋門の扉をこじ開けるのだ。
◎は、ヴェルトライゼンデとする。
淀の競馬場、その姿をみれば、人をして「プティ・ロンシャン」と言わしむる。