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宮崎駿は、天に昇ったのだと思う

 ようやく、映画『風立ちぬ』をみてきた。

 

 久しぶりに「長い」映画をみた、これが率直な感想だ。退屈したのではなくて、ここ最近ずっと、直線的なストーリーをもつ作品や、着地点のはっきりした作品に慣れてしまっていたので、フィルムのなかにちりばめられた情報の断片をそれをみながらつなぎ合わせる作業を求めるもの、いわば、マルチタスク強要型の作品に触れるのがひさびさで、少しくたびれてしまったのだ。ぼんやりとみているだけでは、うまく意味づけできないように、このフィルムは仕上げられているのだと感じた。

 

 ああ、そういえば、内田樹さんが『風立ちぬ』についてブログ(http://blog.tatsuru.com/)で、こう書いていた。

「それについて語らずにいられない」という印象を残すのは間違いなくよい映画である。

  私自身、観たあと、おぼろげに浮かんだ印象を誰かに伝えなければと強く迫られる感じがした。そういう意味でいえば「いい映画」だったのだろう。ぼんやりと現れたものは、非常にネガティヴなメッセージなのだけれども、それに無理にでも形を与えるなら、こうだ。

  「宮崎駿も、老いてしまった」

 黒澤明の『夢」を観たときにも似たような印象があった。はぐらかされたような、散漫な後味に支配されてしまった。

 『風立ちぬ』と『夢』(黒澤と宮崎を並べて語るな、とはもういわれないかな。)は、どちらも主題のあるものではなくて、断片的なモチーフが並べられて、短いまとまりを持ったものと私は考える。なぜこのような形になるか想像してみたのだが、考えれば考えるほど、それは創作の意図でもなんでもなく、単純に「老いると、一つのモチーフだけでは、映像を長く持続することができない」という可能性に思いあたるのだ。これは別に、脳みそが衰えたとか、ボケが始まったという話ではない。

 いくら「巨匠」とよばれる人だって、肉体的な衰えや、一定の力を持続することの困難とは無縁ではないはずだ。男性性器の勃起力だって、角度や硬度については衰えていくときく。(その辺の事情は、まだ30代なので実感的にはよくわからぬ。)どう頑張っても、無理の利かないときはやってくるのだと思う。もちろん好意的にみれば、断片的であること、そこに何らかの意図や仕掛けを読むことができるだろう。けれども、それはあくまで「巨匠」の作品として読むときにこそ出る意味だ。これを「人間」宮崎駿、72歳の作品と読めば、そこにみえてくるのは「生きねば。」=「撮らねば。」という、いま・ここにいる宮崎駿というひと、彼自身の生活を支えている思いと、生命体としての限界が結晶したもの、それが『風立ちぬ』というフィルムだといえる。

 

 こまかなところをいうとキリがないので、とりあえず、思うところを、それこそ断片的にでも書きつけておこうと思う。まずは、SEを人間の声でやるという発想は、宮崎駿らしい発想という感じ。みんなが求めているかは疑問。ただ、このフィルムに関していえば、その妙な引っかかり方(違和感というのとは少し違う)が、うまく画面にフィットした。私は、好意的に受けとった。

 二郎役の庵野さん、文士劇っぽい感じで朴訥なせりふ回し。これも宮崎駿らしい発想。ただ、それをみんなが求めているかは大いに疑問。宮崎監督は以前に、声優さん、とくに女性の役者さんについて、コケティッシュな演技が我慢できない、と話されていた記憶がある。要は、単体AV女優の過剰演技よりも、企画モノ素人ナンパAVのほうが好き、というようなことなのだろうが、こちらについては作品とフィットしていない感じがした。

 せっかく菜穂子が清純派エロ(褒め言葉です)全開で迫ってくるのに、二郎は弓弦を引ききる前に矢を放ってしまう感じ、もっといえば、AV女優お宅訪問企画的な作品で、もっと女優さんのフェラをみていたいのに、素人男優が呆気なく果ててしまうような印象で、少しがっかりした。ちゃんとした音響監督をつければ、オーダー通りのプランで演技をしてくれるはずですから、ぜひ、声の演技をわかっている俳優さんを使ってほしいと思うのです。

 

 まとめると、たぶんこの映画は、劇場でコーラを飲んで、だれかと一緒にポップコーンをたべながら観る映画ではない。家で、ウイスキーでも飲みながら、じっくりと画面のむこうにある世界の空気を、脳みそのなかに織り上げていくものなのだろう。昼の映画ではなく、夜の映画。ポピュラーな、誰にでも受けいれることのできる映画ではなく、宮崎駿をフォローし続けた者たちに与えられた褒美のように思われる。そういう意味で、もう、宮崎駿はふつうの人間たちを相手にしない。一般的な意味での大衆は、相手ではないのだ。自分を追う者たち(作品の価値云々ではなく、宮崎駿スタジオジブリという看板を信じる者たち)だけを、自分の描いた世界へ連れていくのだ。氏子や檀家みたいなものが満足するものを提供していく。その意味で、宮崎駿は天へ昇った。そのように私は感じたのだ。