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「過激」であることの効用

 『はだしのゲン』をめぐる一連の騒動は、開架に配置して自由に閲覧できる状態に復すという決定をみて、終息するようである。しかし、今回のところは「手続きの不備」が理由であり、作品の内容や表現についての議論は宙吊りのままで終わってしまった。このままならば、近い将来に再び、表現の「過激さ」をめぐって同様のことが起こるだろう。そもそも、今回の混乱は、一部の人間が示した恣意的なものさしで作品や表現の「過激さ」を測った結果なのだ。ならば、そのような不毛な時間を費やす前に、何をもって「子供にとって不適切な表現」とするのか、どのような文脈・内容の場合は許容できるのかについて、ものさしを作っておいた方がいい。

 

 今回、話題の中心にあった『はだしのゲン』は、いわずと知れた原爆投下後の広島を舞台にした作品である。敗戦直後の社会的混乱と戦災孤児たちの悲惨な生活を後世に伝えるべく描かれた作品といえる。多くの小学校や中学校の図書室で供されており、私自身も小学校の図書室(もちろん開架に配置されていた)で手にとり、友人たちと奪い合うようにして読んだ。一時は人気のあまりに辞典類と同様に禁帯出の指定がされたくらいだった。

 個人的な体験を話すと、この作品を読んだからといって、首狩族になる欲望が芽生えたり、同級生の女の子を輪姦しようと計画することはなかった。むしろ、暴力や性的な行為の描写がグロテスクすぎて、それらに対する恐怖と憎悪しか生まれなかった。作中に描かれる世界が、あまりに自分たちの暮らす世界とかけ離れていて、現実感がまったくないのだ。たぶんこのことは、マンガや小説、もっと大きく捉えれば、文芸や視覚芸術を受容する際にわれわれの内面で起こる作用を考えるとき、大きな示唆を与える。

 

 『はだしのゲン』に描かれるものは、戦争を知らない者にとっては、自分の暮す世界と何ら直接のつながりを持たないものだ。現実に題材をとったといわれても、それは、時間的に遠く隔たった世界について描かれたフィクションにすぎない。核兵器で自分の住んでいる街が、一瞬でまるごと吹っ飛びます。そんなことは、虚構の世界の出来事としか思えない。だから、もしその表現が、当たり障りのないものに改変され、無難な内容をもつ作品にされたならば、戦争のもたらす痛みについて知るきっかけもなく、考えることもなかっただろう。もしかしたら今ごろ、尊大な協調思想と臆病な愛国主義によって、九州と朝鮮半島を中心に東アジアを火の海にしていたかもしれない。

 むしろ、マンガで表現された世界が「過激」で、「良識ある」大人の判断からすれば、小学生にとって過剰に暴力的で性的な内容だったからこそ、『はだしのゲン』を読んだ子供たちは、戦争のない自分たちの世界を対象化できたのではないか。作品を通して、自分たちの暮らす世界は自明なものではなくて、何かしらの努力の上に成立しているのだと認識できるのだ。

 もう一度、僕の個人的な体験にもどれば、僕がいま戦争をしたくないと考えるのは、小学生のときに『はだしのゲン』に描かれていた世界が、自分の暮らしている世界にくらべて、あまりに多くの「不快」なものに満ちていたからであり、その世界に「恐怖」を感じたからだ。僕は『はだしのゲン』の世界では暮らせない、生き抜くことはできないと生存の危険を感じたからだ。平和ボケだといわれようとも、虚弱だと罵られても、それは偽ることのできない感情だ。

 

 さて、まとめよう。人々が「読まれるべき作品」と考えるものは多くある。『はだしのゲン』もまた、そのようにいわれてきた。ただ、もしかしたら、すべての作品は等価であって、すぐれたものなどなくて、本質を穿ったといわれるものや有用性が高いといわれているものも、一部の人々の間で合意されただけの、無難なものにすぎないのかもしれない。

 けれども、僕はこう思う。すぐれたフィクション、本質を穿つ虚構は存在する。ときには、ある種の過剰性や過激さをまといながら。すぐれたフィクションのもつ効用のひとつは、過去にここではないどこかにあったもので、そして、もしかしたら「いま・ここ」に降りかかるかもしれない「不快」なものの存在を示すことにあるのだと。

 だから、過去を描く虚構作品は「過激」で「過剰」であるべきだ。平和な未来が何の努力も根拠もなしにやってくるという、うすぼんやりとした幻想を、震災を免れて東京に住む僕はいまも捨てきれずにいるのだから。