正月である。
ほとんどエントリをしないブログだけれど、盆と正月くらいは更新しておきたい。
一緒に過ごす人などないので、ひとりで静かな正月である。
こういう正月が送れることは、ひとえに世の中が便利になったからだ。
正月であろうと、近所のコンビニは変わらず24時間開いている。大きなスーパーもレンタルビデオ店も、元日からフルパワーだ。生活に関しては、何も変わらない。
ぼくが小学生だったころ(すなわち20年以上前だ)は、日本全国、寺や神社の周り以外はどの店も休みだった。大晦日から三が日、下手をすれば松の内は買い物する場所に困った。それに銀行も閉まる。いざという時に独りでは危うかった。だから、暮れの買い出しやおせち料理は「必要」であって、独りで暮らす者は誰かを頼らなければならなかった。(ぼくはこどもだったから、後半は推測だけれども)
では、それで極端な不便があったかといわれれば、そうではなかった。
暮れと正月は、あらゆるものが休みになる。
それが当然であって、普通のことだと思っていた。いわば、こういう文化のなかに暮らしているのだと、そのことを疑わなかった。
ただ、誤解のないように言っておくと、いまの正月に不満があるかといわれれば、それはない。実際、自分はその便利さを享受しており、それがぼくの正月に、日常と変わらない暮らしを保証してくれるのだから。
けれども、一方で不安もある。
最近、ロンドンのごはんが「食える」ようになったときく。
ロンドンの食事のマズさは、ある意味で「個性」である。ひとつの文化なのだと思う。
ならば、それはロンドンの文化のうちにある一側面が消失したことにならないか。それを言っていた人も「これは、ロンドンがグローバル化したことの証明なの。あれほどマズイといわれていたロンドンのゴハンさえ均質化していくのよ」と話していた。
すると、東京のお店が正月に休まなくなることも、グローバル化という世界規模の均質化が、かたちをとってあらわれているだけかもしれない。ぼくは、古いタイプの日本人だから、盆と正月は休みたい。古いタイプの、いいかえればローカルな人間だから盆と正月は休むべきだと強く思わされている。何に? たぶん、これまでの日本に刻まれた文化に。どこかで、盆と正月に休むのが真っ当であって、そうでないときには何か虚しい存在であるような気がした。その価値意識を形成しているのは、親の教育であり、その親が受けてきた教育であり、その根にあるのは継承されてきたこの国の文化だろう。
そのうち、正月に休むことさえなくなって、どこの国でもない国になってしまうことだけは避けたいと、コンビニで買ってきたケーキを食べながら、これを書いている。