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気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

「コスパ」から遠くはなれて

あまり多くの人の目にふれない媒体に文章を寄せたので、ここに転載しておく。

 

 『食べログ』は便利だ。不案内な土地や旅行先でハズレのお店を引いたときの落胆は、ことばにならない。それが原因で別れるカップルだってある。(ただ、これをきっかけに恋人がとんだモンスタークレーマーだとわかることもあるから、不幸ばかりではないけれど。)

 とにかく『食べログ』は、ぼくらの人生におけるリスクやコストを大幅に軽減し、また、人生の質的向上に貢献しているのは間違いない。

 『食べログ』には一定の価値がある。けれども、これをぼくが好んでいるかと問われれば、システムを構築した人には申し訳ないが、こたえは「ノー」だ。

 『食べログ』に書きこまれたレビューでよくみる表現として「コスパ」というものがある。コストパフォーマンス、費用に対する効果のことをいうのだろう。食事やサーヴィスの質だけでなく払ったお金の量に対しての満足度が高いか低いか。これが『食べログ』におけるレビュー得点の高低にかなり大きく影響している。

 『食べログ』は、費用対効果に対して非常にシビアなメディアだとぼくは考えている。値段の高い店は、訪れる者の抱く期待が大きい。だから、いかに優れたサーヴィスを提供してもレビューは高得点になりにくい。感動は、期待を大きく越えたときに生まれるからだ。一方で、低価格帯の店が過度に高い点数を得ることもある。安価なものが大きな満足を生めば一種の感動や快楽となり得る。

 

 だが、われわれにとっての「価値」は、そのような経済的な価値だけなのか。

 費用対効果、経済の論理だけが、ぼくらが依るべき唯一の正義なのだろうか。

 

 話を身近にするために、学校での学びについて経済の論理=コストパフォーマンスで考えてみよう。卒業するこのタイミングで、諸君らがしてきたこれまでの学びを振り返ってほしい。きっと、可能な限り勉強に費やす時間(費用)を減らして、試験でなるべく高い点数(効果)を得たいと考えた人もあるに違いない。これはまさに、経済の論理で勉強をとらえるあり方である。

 この論理を推し進めてゆくと、極まったとき「勉強せずに高得点を得ることが正義である」ということになる。それは「コストパフォーマンスの高い」学びであり「賢い消費者」としての学びである。では、仮にその目論見が成功したとして、その結果として残るものは何か。学校を卒業したという「記号」を得た、無知無学の人間一個である。

 

 このたび卒業する諸君らには、学習の結果として得られる報酬の獲得ばかりに熱中していた者などいないだろうし、真に知的な学びを積み上げてこられたと思う。けれども、卒業に際してあらためて申し上げておきたい。

 

 学びとは、経済の論理(費用対効果)でとらえるものではない。

 賢さとは、最低限のコスト(学習時間や知識)で高い点数を得る技量ではない。

 他者との競争に勝つこと、報酬を得ることは勉学の目的ではない。

 

 卒業する諸君らの多くは進学して、新たな場での学びに励むことになる。そのときに「いかに少ない労力で、卒業に必要な単位を修得するか」「いかに効率よく、技術を習得するか」と考えるようでは、そこでの学びは味気なく、また、意味のないものになるだろう。

 学ぶことや研究することは、それ自体が目的である。何かに役立つがゆえに意味があるのではなく、競争に勝つための武器になるから価値があるのでもない。経済の論理、費用対効果ばかりにとらわれていては、ぼくらの学びや人生はかえって貧しいものになる。むしろ「コスパ」の呪縛から逃れた余剰や遠回りのなかにこそ、ほんとうの豊かさがあるのだと申し上げて、諸君らへの餞としよう。