残業手当はありません

気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

Twitterと私

 Twitterを頻繁に使うようになって、本格的に本を読む量が減っているように感じる。必要なときにしか本を手にとらなくなって、何もすることがないから本を読もうという気分になることが少なくなっている。そのかわりに、Twitterをみる。そして、ぼんやりとしたつぶやきをする。
 ただし、字を読む量自体は、Twitter導入以前と以後で変わりがないはずだ。

 

 いま、あまり賢そうでない高校生女子が、これを書いている車両全体に響く声で、たわいもない話している。周囲に自分の馬鹿さ加減を知らしめる行為にひとが夢中になるのはなぜだろう。

 

 Twitterもそれによく似ていて、ぼく自身も何かをつぶやくたびに自分の馬鹿さ加減を全世界的に放流しているのだと思うが、この「ことばをたれ流す欲求」に抗えずにいる。思考の深いところまで到達せずに、脳みそに浮かんだものをあっさりと形にできる手軽さは、なかなかの快楽だ。
 生産性を感じないのがいい。
 義務感も責任感もない。スナック感覚マスターベーションに近い。ポテチ、ポテチ、Twitter、オレンジジュース、自慰。オレンジジュース、Twitter、自慰。バウムクーヘンTwitter、ミルクティー、自慰。自慰。

 

 上に書いたとおり、一日に読んでいる文字の数はたぶん変わっていない。本を読む時間がそっくりTwitterに持ち去られているだけだ。結果、本から得られるような、自分の遠くからやってくる気づきが少なくなっている。自分の周りを漂う情報の断片で粘土あそびをしているだけだ。
 深い思考へのトリガーになるものが、Twitterに漂流していないわけではない。けれどもその数は少なくて、タイムラインに流れているもののほとんどを、みんな明日には忘れている。誰かがTwitterを評して、校長先生が話す終業式の訓話みたいなもので、次の日に覚えているやつはいないと言っていたけれど、まさにそういうものだ。

 

 Twitterを使うようになって、多少ことばに対する反応速度は上がった気がする。けれども、反応の質と精度が上がったかと問われれば、むしろ低下したのではないかと思う。間違いなく一回のやりとりに対する集中力が落ちた。インプットもアウトプットも断片で行う。しかも脳を通さずに、身体が生理的に反応するのと同じように言葉を発する。紡いで糸にする作業をしないままに、書かれたものがどのように受けとられるかを意識しないままに、ぽろぽろと思いをこぼしていく。自分のことばが誰かを動かす可能性を想像しないままに、意図しない相手に届くことを想像しないままに、一方向的に「捨てる」だけの言語活動へ流れていく。
 その結果、時間的・空間的・思想的に離れた相手への意識が、つぶやけばつぶやくほどに削られて薄れていく感じがする。ことばを「捨てた」あと、自分が想定した反応だけを拾って気分をよくして、それ以外の反応を無視したり拒絶したりする。そうして自分の考えを相対化する機会をなくしていく。

 

 最近、少し時間ができたので、厚い本を読むことと、多少まとまった文章を書くことを再開した。
 厚い本の多くは、ぼくらが暮らす時間や空間とは違う場所からやってくる。しかも、その物質的な存在感ゆえに簡単に埋もれることはない。仮に積まれたままであっても、存在自体が忘却されることは少ない。
 一方でTwitterに流れるテクストは、時間的な堆積(タイムラインの更新)に埋もれて見えなくなってしまう。時間をこえて共有されることは、はじめから求められていない。瞬間的な共有が目的なのだから。
 Twitterのありようでは、既存型の知的蓄積をするのは難しい。一方、既存の知のモードでTwitter型の思考と直接に接続するのは難しいだろう。それこそ「別のしかた」が求められるのだと思う。

 

 さて、ぼくの思考はどこへむかうのだろう。
 このまま自慰に耽っていては、他者や新しい発想に出会うこともあるまい。
 マスターベーションは、肥大した自己の欲望との対話なのだから。
 このままなら、外部はない。
 ただ、白くもやもやとした、形のない妄想を吐き出すだけだ。