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感想文が苦手だという話

 どうにも、いわゆる感想文が苦手である。読むのも、書くのも苦手である。

 

 仕事柄、大量の読書感想文やら、行事の感想文やらを読まなければならない。これがとんでもなく苦痛である。おそらく、文章を読むことが好きな人であればあるほど苦痛であると思っている。書く側の多くは書きたくないと思いながら、課題だから仕方なく書く。読む側のほとんども読みたくないと思いながら、仕事だからと仕方なく読む。

 こうして、不幸な感想文体験が積み重なることで、感想文という音を聞くだけで恐怖感を覚えるようになる。そのように日本中にまき散らされている不幸を、少しでも和らげることができればいいと思い、これから、つらつらと感想文についての恨み言を書き連ねていく。

 

 読ませる気のない文章を、読む気のない人間が読む。これは不毛である。

 

 読ませる気がない、楽をして作業を終えたいものだから、とにかくテンプレートに当てこんで書いてくる。

 もちろん、型はとても大事である。その型にあてはめれば、枠から外れるものにはならない。意欲のないときに体裁だけを整えるためならば、これほど有効なものはない。

 また、正しく使えば、表現上も高い効果を生むことは否定しない。けれども、書きたい思いにあふれているのに、これまでに植えつけられたつまらないパターンにハマって、苦しんでしまう人もいるだろう。そこで、文芸としての感想文、あるいは人に「読ませる」ための感想文を書こうとするときに、打破すべきいくつかのパターンを記しておく。

 

 1 書き出しのパターン

課題図書を選んだ理由を書く

いい歳になって「私がこの本を選んだ理由は~」などとやられると、その瞬間に読む気が失せる。

 

驚いたり、衝撃を受けたり、最初は嫌だったりする

あからさまに「課題だから仕方なく」とポーズをとってみたり、あるいは大げさに「驚いた」「衝撃だった」「感動でふるえる」のは、そろそろ使い古されたので、次の芸を考えた方がいい。

 

長すぎるあらすじ

書き出しから、用紙1枚をすべてあらすじで埋めてくる阿呆。重要な箇所がどこなのかわからず、情報を整理できない馬鹿だと白状するのと同じなので、頭が悪いと思われたい人にオススメ。   

 

 

2 内容のパターン

Amazonレビューなどを剽窃する

先生も阿呆ではないので、それぐらいはチェックします。仮に、阿呆な先生に当たったとして、それがどこぞのコンクールなどに出展され、挙句に入選などしようものなら、書いたヤツも一緒に阿呆扱いされて恥をかく。

 

素朴な感情移入と他者認識

簡単に「私と似ている」とか「私には理解できない」と書いて、そのまま放置してしまうのは、何も言っていないのと同じだ。誰も、素朴な気持ちなどを読みたいとは思っていない。また、人間どうせ死ぬときは独りで、基本的に誰も他人に興味なんかない。他者を理解できないのも「普通」だから、いちいち書いてやる必要はない。

 

引用したあとを「面白かった」「興味深かった」だけでしめる

君が「面白く」「興味深く」感じたかどうか、それだけを書いた文章にはまったく価値がない。それだけで何か価値が生まれるとしたら、きっと君はスーパースターなのだろう。「堀北真希さんが絶賛」「羽生結弦くんも読んでいる」と同じだけの価値が、自分の言葉にあると信じるならばやればいい。

 

3 結びのパターン

「学んだ」「教訓を得た」ことを主張する

読む前と読んだ後で、私の意識はこんなに変わりました。偉いですよね、ほめてください。賞をください。こういうよい子の作文を、私は絶対に認めない。あざとい。特に「今日から~~しようと思います」は、処刑ものだ。

 

何の感想・印象も記さないまま、紙幅が尽きて終わる

課題となった書物の感想を語るときに、核となる部分は何だったか、まったく語らぬままに、読んだという事実だけが書かれている。そして、何の合意も形成できないまま「紙幅が尽きたので、このへんにしておこう」と、偉い作家のような〆で終わる。素人がこれをやると、構成力と大局観のなさが強調される。

 

宣伝で終わる

「みなさんも、ぜひ読んでください」は、紹介文として書くならよい。けれども「感想」とは、少しずれている。もしかして、君は誰かから金をもらっているのか。

 このようなパターンを外していけば、きっと、幼稚なものにはならないはずだ。

 けれども、まだまだ内容的には不親切だとは思うので、もう少し書いておきたい。

 

 感想・印象の前提となる客観的情報を提示する

 いきなり「好きです」「嫌いです」「面白いです」「つまらないです」と感想や印象を提示されても、読み手の側は受け止めきれない。受け手と書き手の情報共有がなされていないから、書き手を受け止める準備が不充分だ。

 だから、まずは、その感想や印象を抱いた前提となる事実や情報を書く。読書感想文ならば、読んだ本の該当箇所を引用するのでいい。ドラマや映画、アニメーションならば、その場面の説明やキャプチャした画像でいい。とにかく前提を共有するのだ。

 大事なのは、これから語ろうとする感想や印象のソースとなったものを、きちんと提示してから語り出すこと。そのために、最低限度のあらすじや引用は必要だ。それ自体を不要とは言わない。長すぎるもの、露骨な尺稼ぎがダメだと言っている。

 

 感想・印象・心の動き、そのものを語るのではなく、その理由を語る

 上と重なる部分もあるが、作品のある部分が自分の内面に作用して、その心の動きを作ったとする。そのときに心が動いたことを語るのではなく、心が動いていく過程や経緯をたどって語ることが大事だ。

 自分の情動、それを追体験させることを意識する。合意を形成することが大事だ。読んでいる奴が、自分のすべてを理解してくれると思ったら大間違いだ。もしそうだとしたら、そいつは、君のクローンか熱心なストーカーだ。人間はそんなに便利ではない。

 だから、その情動の引き金となったものを説明して、引き金になったものがどのように作用したかを語り、その着地点として、感想や印象を語ることを意識することが大事だ。他者の興味は、そこにある。

 人には、不可視なものを、可視化したい欲望がある。

 このときに、説明で手抜きをしてはならない。少し説明しすぎるくらい丁寧に書きこんでおくことが肝要だ。書いたものは、あとから省いたり削ったりすることができる。とにかく、念入りに書きこんでおくことが大事だ。外からはみえない内面をみたい、そういう欲望を利用するのだ。

 

 主題がぶれないようにする

 書いていくなかで起こる問題として、書いていくうちに脳みそがドライヴして、あちらこちらへ話題が飛ぶことがある。

 普段のおしゃべりやトークショーのようなものならば、そういった跳躍・飛躍は楽しみでもあるが、何かを伝達するための文章だったり、あらたまった場でのスピーチであると、その自由な発想が、本来伝えるべきメッセージが伝達されることを妨害してしまう。

 だから、意識して話題を絞ることが大事だ。そして、作中の場面であれば、その場面について考えを深めることを、小説中の表現であれば、その表現の解釈を狭く深く行うこと、そういった「限定」をあえてかけることで、かえって感想や印象が伝わりやすくなるのだと、私は考えている。

 高橋みなみAKB48 前総監督)が、自身の著書『リーダー論』のなかで、こんなことを書いていた。

 私がスピーチの構成で一番気をつけているのは、「太文字になるような言葉」の存在です。 

 見出しになる言葉、中心となるメッセージ、そこに焦点が合うように構成しなければならない。それが曖昧なようでは、誰にも伝わらないのだ。

 

 他にも、私自身も気をつけていること、気をつけなければならないと思っていることはあるが、それこそ散漫になりそうだ。今日はここまでにしておく。

 

 日本において、感想文とは業の深い営みである。

 日本で教育を受けた者は、「せんせい、あのね」の洗礼を受けて、作文の内容的な価値が「子供らしさ」という外部評価基準によって決定されていることを知る。

 うかつにも、素直に自身の感想や印象を述べたとき、大人たちの価値体系に沿わないものはすべて否定される。これによって、感想を述べること自体に対するトラウマを抱える者もあろう。そうして我々は、率直に感想を表明することをやめるのだ。型どおりに書くことで、やわらかな自分の内面を守るのである。

 そもそも、誰かの抱いた感想を、評価することができるのか。ある体験を通して「成長」や「変化」が得られなければ、それは意義のないことになるのか。そうして自分の体験を誰かに「評価」されることを厭う者は、つまらぬ感想文を量産するようになる。

 

 そういう旧弊を乗り越え、ただ素朴に「面白い」といえるものを、ただ素朴に「読みたい」「読ませたい」と思えるものを書ける空間は作れないのだろうか。そんなことを考えながらこれを書いた。