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手ざわりのない文章たち

 感想文の季節である。

 日本の学校空間における感想文の位置づけは、抑圧の装置以外のなにものでもない。

 

 私の職場でも、当然その営みは年中行われている。校外学習へ行きました、感想文を書く。芸術鑑賞会がありました、感想文を書く。他にも普段の授業内でのリアクションペーパー、週末課題のふりかえり、何をするにも最後は感想文を求める。

 そのなかでも最大にして最凶の感想文イベントが、課題としての読書感想文である。

 学校に通う児童・生徒の多くは、夏休みにその苦行を強いられるのだろう。私の職場では、一般よりも少し早く苦行の季節がやってくるのだが、やはり、例にもれず読書感想文を課題にする。

 

 感想文は自分の感想を書くのだから、事前に用意された正解など存在しないと考えるのが素直な考え方だろう。主観的に抱いた思いをそこに言語化するのだから、文章の巧拙、切り口の角度などに差異はあれども、それを読んだ者の評価については好き/嫌いしかないはずなのだ。

 しかし、学校空間においてはそのような考え方は有効ではない。

 学校空間における「常識」は別のところにある。そこで最も高い評価を受けるのは「よいこのさくぶん」である。与えられた課題図書から教訓をよみとり、学習したり成長したりしたとアピールする文章である。背伸びしたり、格好つけたりしてはならない。「子どもらしい」「素直な感性」で「等身大の感想」を書けという教員の期待を内面化した作文に最高点がつく。その結果、書く方も読む方も楽しくない紙屑が大量生産されるのだ。

 日本で学校教育を受ける児童・生徒は、ことあるごとに教員による感想文の「添削」という行為を通して、自分の価値観を否定されたり、「修正」されたりしながら、児童あるいは生徒という枠のなかに押しこまれてきた。「子供の領分」を越えてはならないのだ。

 だから、ある側面においては教育の最終段階ともいえる大学において、学生がレポートをコピペして済ませようという発想に至るのは、日本の作文教育の「達成」といえるのだ。引き写したものには、自分の価値意識や判断は一切入りこまない。誰かによってあらかじめ用意された「答え」に寄り添って書くように教育されてきたのだから、当然の帰結なのだ。(だからといって、コピペする人間を擁護するわけではない。そこでコピペを選んだということは、自分の知性によってこの世界に新たな価値が生まれることはないと宣言したも同然なのだから)

 

 感想文の話にもどろう。この時期になると、例年とある「文芸コンクール」へ応募する文芸作品の校内選考をはじめる。私の職場では、夏休み前に感想文を集めてしまって、授業のとまるこの時期にコンクール応募作品を選定するのだ。

 しかし、あつまる感想文のほとんどは「よいこのさくぶん」だ。書かせるときに「文芸」だといいきかせて、簡単に感情移入したり、学んだりするな、そう説いても「さくぶん」が集まってくる。これはもう「〈せんせい、あのね〉の呪い」以外のなにものでもない。「せんせい」の期待する「よいこ」の枠をこえないように書いてくる。

 

 そうして、なんとも手ざわりのない文章が集まってくる。

 

 書くときの、思いと言葉との間にあるズレを埋めようともがく姿や、背伸びや格好つけを試みた末にいびつに連なる切れぎれの文。そういった妙な尖りを原稿用紙にぶつけながら、少しずつその尖りがなめらかになって(けれども、完全には消えずに)その人その人の書きぶりは獲得されていくはずなのに、学校空間の感想文はそういう可能性をつみとってしまいがちだ。

 ここまで自分の思いをさらけ出してよいのか、というためらい。その躊躇や逡巡のすきまから、もれ出してしまう思い。そういう過剰さや余剰のなかに、人生の機微や世界の真実への気づきがある。自分でも先読みのきかないような、確信のない書きぶりのなかにこそ、リアルが映りこむのだ。(読む側はそういう言葉にこそ触れたいと思っている)

 

 さて、感想文の季節のおわり。〆切はすぐそこまで迫っている。

 うまらない原稿用紙をかかえている子がいるだろう。そのまわりでするべき仕事は、彼や彼女をイスに縛りつけて空白を満たすように仕向けることではない。また、そうして、苦しみのはてに書かれたものを添削したり評価したりすることではない。

 真っ白いマス目の前でたちすくむその人に今すぐ問いかけるのだ。その本を読んだこのとき、何を思うのかを引き出し、言語化を助けることだ。最初は「つまらん」とか「むずかしい」などという。その「つまらん」「むずかしい」のわけを、細かく分けていく助けをしよう。雑駁な感情に思考のフレームを与えるのだ。

 そうして、一度ことばが紡がれたならば、それによって示された価値を否定しないことだ。もし否定したならば、その瞬間に「二度とおまえの前で本当の思いなど口にするまい、書いてやるまい」と彼や彼女は思うだろう。(当然、宿題がおわることもあるまい)