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「からかう」こと自体、文脈依存的なのである

 フィクションを自身の体験に引き寄せすぎると、その劇空間を楽しめなくなってしまうことがある。『からかい上手の高木さん』(@takagi3_anime)も、たぶんそういうタイプの作品なのだと思う。

 そもそも「からかう」ということ自体が、それぞれの人間関係をベースにしたハイコンテクストな行為なのであり、その関係性の外側にいる者には実態がわかりにくい。その行為の受け手が「うざったい」「いやがらせか」と負の感情を抱いているのか、それとも「たのしい」「うれしい」と正しくコミュニケーションとして成立しているのか、当事者にしか判断できないところがある。

 だから『~高木さん』についても画面の素朴な作りとは裏腹に、高木さんと西片の内面や関係性について、無意識でも意識的にでも一定程度の整理が求められる。その部分への理解がないと、作品世界から取り残されてしまうのだろう。事前に心の準備をしないと「高木さんと同じクラスだったら、絶対嫌い」とか「西片がいじめられているようにしか見えない、もう観ない」などと、作品への忌避感が募るのである。他方で『~高木さん』の世界観が分からない人は寂しい学生生活を送ってきたのだろうなどという風評もあり、作品の場外が混沌としてきている。

 そのような場外戦で『~高木さん』や、天性のオタク釣り声優・高橋李依との接触が絶たれてしまっては悲しいので、作品鑑賞にあたって備えておくべきことを備忘的に書き記しておく。

 

1 西片の高木さんに対する心情は、未分化なままである

 西片の精神的な成熟は一般的な中学生男子と同様に、中学生女子であるところの高木さんに比べて遅い。そのため高木さんに対する思いも、恋とか愛とかなんとかと名前のついているものではない。うまく名前のつけられない好意めいたものと、からかいを受けることで醸成される対抗心(ライバル心か?)が混合されたような思いなのだ。

 「誰かと付き合うようになったら手をつないだり、キスしたりとかするのだろうな」とか、「女子と同じ缶でジュースを飲んだら間接キスだ」とか、恋愛とその周辺領域についての断片的な情報はあるけれども、具体的な人物の像を伴うものではない。

 

2 高木さんは西片への心情を、明確に意識している

 一方で高木さんは、自分が西片へ向けている感情の中身をかなり明確に理解している様子である。彼女が西片の「いい反応」を「楽しい」と評価していることから、少なくとも二者間のコミュニケーションがどのような構造を持っているかについて、かなり意識的であることは読みとれる。

 それは、現状の「からかう/からかわれる」のコミュニケーションは、西片が高木さんのからかいを丁寧に拾い続けることで成立しているということだ。

 だから、高木さんは「現状維持」を望むのだ。西片がその関係性の構造に気づかない限り、あるいは高木さんへ向ける感情に名前をつけない限り、高木さんの西片に対する心情的な優位性は揺るがない。

 

3 高木さんは西片に依存している

 そう考えると、現時点で高木さんと西片の間に行われるコミュニケーションは、西片が高木さんへ抱いているぼんやりとした好意と対抗心に依存していることになる。高木さんは「からかう」行為を繰り返すことで、西片と自身との関係性を確認しているのだ。仮に、西片が高木さんからの働きかけを徹底して「拾わない」という戦術をとれば、おそらく関係は解消されるのだ。高木さんは圧倒的強者ではない。

 だから、潜在的に依存性を帯びているその関係に身をおき、その継続を望む存在として高木さんを描いていることを、男性の勝手な願望を投影だと批判する立場はあると思う。

 

  原作を読んでいないので、アニメーション・TVシリーズ3話までを観た感想はこのような感じだ。上に上げたような「ねじれ」を好意的に受けとめるかどうかが、この作品に対する態度を決めているように思えたので、ここに書いておく。