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気が向いたときに、ぼんやりとエントリするブログです。Twitterで書き切れないことを書きつける場所にしています。

人生の物語よ、響け!

 あまり多くの人の目にふれない媒体へ文章を寄せたので、ここに転載しておく。

 

 

 たいていの場合、大事なものや大切なことは事後的に発見されて、なぜあのときもっと丁寧に扱わなかったのだろうとか、どうしてあんなに重要なことを見落としてしまったのだろうと思う。そんな出来事や人物のことをふりかえるときには、「あんなに一緒だったのに 夕暮れはもう違う色」(See-Saw)と、別々のくらしをしている。

 仕方のないことだ。進行しつつある物事のさなかにあっては、じぶんのおかれている状況を冷静に観察することは難しい。

 出会いについても同じことがいえる。誰かとの出会い、出来事との遭遇、それらの意味はあとから明らかになる。ほとんどの出会いは、たまたま同じ時代を生きたひとびとが、偶然にそこへ集められておこる。「出逢いはいつも 偶然の風の中」(さだまさし)なのだ。

 さらにいえば物語との出会いもそれに似ていて、たまたま家にあった本とか、眠れない夜に偶然テレビで流れていた映画とか、あるいは、親のつきあいで仕方なく観たドラマにその後の人生をねじ曲げられることもある。(考えてみれば、なにをするにも選択を強いてくる現代において、偶発的に何かと接触する機会は非常に少なくなったと思う。閑話休題。)

 そういう偶然の出会いのうちに、ひとは大切な物語を持たされている。誰かによって創作されたものに限らない。虚構のなかだけでなく、日常を過ごす現実の空間にも物語の可能性はある。放課後の教室、友人となにげなく入ったスターバックス、学校の帰りに寄った塾や予備校の自習室、祭りの裸電球やプールサイドの陽射し、記憶に残る情景はあらゆる場所に存在する。TwitterInstagram へアップロードした画像にも物語はまとわりつく。

 表現の形式や方法はさまざまだ。文字テクストだけでなく画像や動画にも物語は遍在している。そして、じぶんの手のうちにそれを保持して、繰り返し再生することによって、われわれは自己の存在を確認しているのかもしれない。

 

 さて、諸君らが本校へ入学したのと同じ、2015年4月に、京都アニメーション制作の『響け!ユーフォ二アム』TVシリーズの放映が開始された。その後も原作小説の続編とともに制作が続く進行形の「物語」である。

 『ユーフォ』の特徴は、普段のくらしにみられるような「生っぽさ」を含む言葉や心のやりとりを、巧みに作品世界へ移植した点だといえる。吹奏楽部内での人間関係や、心理的な葛藤を中心に描く群像劇であり、いわゆる「青春」の時間を切りとった物語である。

 そのような作品ゆえに、私のように自身の高校生活がはるか昔になった者だけでなく、今まさに卒業をむかえる諸君らもまた『ユーフォ』の世界にふれることを通して、高校時代におこった、当事者ゆえに曖昧なままに保留してきた種々の出来事に明確な輪郭をあたえることができるだろう。そうして、物語はじぶんの存在を相対化してふりかえるための装置として機能する。「若さってなんだ ふりむかないことさ」(串田アキラ)と歌った人もあるが、折にふれてふりむくことで、人生の忘れものに気づくことだってある。

 さて『ユーフォ』のなかでも特に印象深いシーンはTVシリーズ2期の第10話。低音パートでユーフォニアムを吹く高校1年生の黄前久美子と、同じパートで同じ楽器(ユーフォニアム)を吹く高校3年生の先輩、田中あすかとのやりとりである。

 全国大会への出場が決まっているために秋になっても部活を引退しないあすかをみて、受験勉強がおろそかになることを心配するあすかの母は、自ら職員室に乗りこんであすかを退部させようとする。母親の猛烈な反対を受けた彼女は、全国大会直前の大事な時期に、個人的な事情で部員のみんなへ迷惑をかけるわけにはいかないと、「大人」の判断をして静かに退部するつもりでいた。そんなあすかを引きとめようと久美子は校舎裏の渡り廊下へあすかをよぶ。そして、叫ぶようにいうのだ。

 

子どもで何が悪いんです。

先輩こそなんで大人ぶるんですか。

全部わかってるみたいにふるまって、

自分だけが特別だと思いこんで……

先輩だってただの高校生なのに!

我慢してあきらめれば全部丸くおさまるなんて、

そんなのただの自己満足です。

 

 引用したセリフについて考えてほしい。久美子があすかへむけた言葉は、あすかにだけわかるものだろうか。あるいは、対象を高校生だけに限った言葉なのか。

 これを観た者は、じぶんの過去や現在の境遇にひきよせて久美子の言葉を読みなおす。たとえば「先輩」を「先生」に読みかえたり、「高校生」を「人間」に読みかえたりする。

 その主体や対象を入れかえても、メッセージにもとと同じ力が宿るならば、そこで語られる言葉や心情は普遍性の水準に達したとはいえないか。換言すれば、世代や立場をこえて響くみずみずしさをもっているとはいえないか。

 たしかに、物語はある特定の時間・場所・人物を切り出すことで作られる。しかしながら、その場面や設定を通して語られることは特定の対象だけを射程とするものではない。すぐれた物語は、ある限られた事象について語りながら、あわせて人生のあらゆる場面を照らすことができる。

 そのように考えるとき、物語のもつ最大の効用とはなにかと問われれば、「ここではないどこかへと 胸を焦がす」(GLAY)ことを通して、人と世界との関係を捉えなおすことだと、私は応答する。

 物語はシミュレータである。自分はいま、どういう物語を生きようとしているのか、生きてきたのか。そしてまた、他者の物語とどのように交わろうとしているのか、交わってきたのか。それを想像する力(あるいは、創造する力かもしれない)が、われわれの生を支えていると強く思う。

 

 先ほど引用した場面でもうひとつ、大事に味わいたい言葉がある。

 最後に久美子が声をしぼり出すようにして、あすかへ伝えた言葉だ。

 

後悔するってわかっている選択肢を、

自分から選ばないでください。

 

 同じ言葉を、諸君らへの餞(はなむけ)として贈ろう。

 あらかじめ後悔するとわかっている選択肢を、みずから選ばないこと。

 誰かに命令され、それを不本意に実行させられてしまったことの後悔は、海の底より深い。

 そして、他人によって安易に動かされないために、みずからの物語を強く、濃く、書き綴るのだ。

 

 私は願っている。諸君らの人生の物語よ、響け!