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『このすば !』なる、ゆるしの国

 『この素晴らしい世界に祝福を!』(角川スニーカー文庫)を読んでいる。

 ひとまず、本編13巻までを読みおえたので、現時点での感想を簡単に記しておく。

 

 『このすば!』は、基本的に登場するキャラクターの「ダメ」な部分が前面化していて、これが物語の展開と有機的に絡んでいるところに、魅力の肝があるのだと感じる。

 よくある異世界転生ものであれば、転生した際に特別な武具やスキルを手に入れることで、その世界における絶対的な存在として周囲からまなざされることになる。ひいては、そのまなざしを内面化するのか、なぜか転生前のぱっとしない人格までも手放し、内面までもすっかり勇者化してしまう。

 それを成長といえば聞こえはよいが、結局「人のせい、物のせい」でダメだったのであり、本当はすぐれた潜在力があったのだと、後づけの理屈で説明することになる。

 

 ちょっと都合がよすぎる。

 

 結局、自分が満たされないのは社会が悪い、世間が悪い。あるいは、本気を出す環境がととのっていないから、頑張っても仕方がないのだという、幼い自尊心を満たすだけのものになってしまう。それでは読む側も楽しみが少ない。

 『このすば !』は、ダメな人間をそのままうけとめるように、世界全体がセットされている。

 主人公であるカズマは、乏しい冒険者としての資質を工夫と運でカバーして、とにかく楽をすること、危険を回避すること、生活を安定させることを第一義とする。魔王の存在なんかどうでもいいし、活躍なんてしなくてもいい。英雄的な名声よりも、あそんでくらせる環境がほしい。ゆえに、他人の期待や世間のまなざしをいっさい顧慮しない。そういう「いさぎよいダメさ」がこの物語の通奏低音としてある。

 周囲をかためる女性キャラクターも、いわゆる「残念美人」「残念美少女」的な設定がなされている。

 カズマがチート的武具、スキルを得るかわりに道づれにした女神・アクアは、彼女を信仰の対象とする宗教の教義を体現して、享楽的な生活にふけることを全面的に肯定してゆく。戦闘にまったく役立たない、宴会芸スキルの卓越性や手芸の細やかさが作中でノイズ的にさしこまれることで、アクアがすっかり世俗的存在となり、周囲からその神性が忘却されていることを読者に印象づけている。

 女騎士・ダクネスは、鍛えあげた防御スキルをいかして、敵の攻撃を受けとめつづけることによってパーティの盾となるが、その実際は、モンスターに痛めつけられることで自身の被虐性愛的な欲望を満たそうとする「変態さん」である。攻撃スキルを身につけるとモンスターを倒してしまうという理由から、スキル獲得をしないまま、文字どおり肉の盾となっている。

 そして、圧倒的な破壊力をもつ爆裂魔法に魅せられて、他の魔法を一切習得することなく、爆裂の威力を高めることだけに心血をそそぐ魔法使い・めぐみん。威力こそ凄まじいものの、1回撃つだけで魔力をすべて使い果たしてしまう、使い勝手の悪い魔法を偏愛している。有用な上級魔法の習得を可能にするほどの資質を持ち、周囲からもそれを期待されていながら、その偏執的愛情を手放すことはない。

 

 異世界への転生は、ある意味で人生のリセット行為である。

 前にすごしていた世界での記憶を残しながら、別の世界へ転生することはある種の「強さ」を獲得することになる。

 そういった「つよくてニューゲーム」状態は、ある種のチート技であるにもかかわらず、なぜか異世界転生の話型では問題視されないことが多い。もちろん『このすば!』においても、そういった部分はある。

 けれども、話の核にあるのは、あくまで弱さをゆるす価値意識である。

 いびつな能力のままでいることを認め、たがいの心の弱さをゆるす。抗いがたい欲望にのまれるさまを軽蔑するでなく、そういうありようを呑みこんでやる。それはまるで落語のようである。立川談志は「落語は人間の業の肯定」といい、人の弱さをそのまま受けとめる芸能として落語をみていた。

 そう考えれば『このすば !』の人間観もまた、落語的な、人間の弱さを肯定するところにその特徴があるのではないか。