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予定された競馬は、われらを救うか

 中111日でのグランアレグリアによる桜花賞制覇。そして、中106日のサートゥルナーリアによる皐月賞制覇。2週続けて「休み明け」でのクラシック制覇となった。もはや、休養明けを理由にすることは言い訳に過ぎない。調教技術の向上、特に美浦栗東の両トレーニングセンター外にある、私設のトレーニング施設を利用したレース出走に向けてのコンディション調整は、2010年代の日本競馬の様相を大きく変容させた。

 ただ、この2頭が規格外の力をもっていて、ゆえにレース間隔が大きく開いても問題なかったのか、本当に調教技術の進歩が影響しているのか、まだ判断できない。したくない。昨年、アーモンドアイが長いレース間隔で桜花賞秋華賞を勝ったことについても、素朴に能力が高かっただけかもしれない。むしろそう思いたい。


 自分の予想通りになればいいと競馬をみる人は思う。けれども、予定通りに終わればいいとは思わない。それぞれの陣営が思うとおりの過程を経てレースに集まればよいと思うが、実際の競馬になったとき予定されたように勝ち馬が決まるならば楽しみもなく救いもない。すべては予定されている、うまれながらの運命に従って。そのように宣言するだけの競馬をみるために、われらは競馬場へいくのか。

 クラシックの楽しみは、みる者それぞれが自由に物語を紡いでその結末を勝手に夢想することにある。ある人は理性的に。ある人は情熱に身をまかせて。違う道を歩んできた人馬が、仁川に、中山に、府中に、淀に、一堂に会すその光景をみて、ある年には圧倒的な強さをもとめ、ある年にはライバル同士の対決をのぞむ。あるいは血の呪縛をこえて栄誉を得ること、一族の宿願を遂げること。その思い、その蹄跡が一連の流れとなってみる者の感情をつくるのである。


 休み明けの馬がいきなり勝つ。あるいは、2016年に大井の東京ダービーを勝ったバルダッサーレのように、中央から転厩した初戦で南関東のクラシックレースを勝ってしまう。前哨戦をパスして本番に直行する「ワープ」が続くようであると競馬の愉しみは削がれてしまう。トライアルの地位は低下して、意義が失われる。

 予定どおりの競馬ということであれば、いわゆる「使い分け」の問題もある。欧州では大馬主、大厩舎、騎手の専属契約などの都合による出走調整は一般的なのだろう。日本の場合は事情が違う。大川慶次郎が「ゲートに入って、レースが終わるまではファンの馬でもある」というように、競馬サークルと直接の関係をもたないファンが馬券で買い支えることによって競馬を持続している面がある。ゆえにファンが離れてしまえば、日本の競馬はなくなる。

 毎週のレースが充実し、重賞の結果が大レースに結びつくようでなければ、競馬全体の裾野が縮小してGIレースの盛りあがりも薄れてしまう。ましてや、騎手の都合がつかないから大目標のレースを回避などということがあってはならない。その馬についているファンの思いはどうなるのだろう。裏切られたという思いさえ抱くだろう。

 もちろん馬主や厩舎のレース選定については部外者は何もいえない。ただ、良心に訴えて出走を促すという「俗情との結託」は許されない。


 競馬をみる者は、応援している馬が勝つところだけをみたいわけではない。あるいは予想が当たることだけを楽しみにしているのではない。寺山修司はいった。「賭ける度に儲かってしまうギャンブルなど何とむなしいだろう」と。競馬を熱心にみる人は、勝ちも負けも、苦しみも喜びも、全部ひきうけて応援しているのだ。ままならないレースぶりや、意に沿わない乗り替わりさえも愛しいのだ。寺山はこうもいった。「競馬の快楽は、運命に逆らうことだ」と。競馬を大切に思うならばこの楽しみを奪わないでくれ。予定された競馬に未来はない。