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才能について

 あまり多くの人に読まれない媒体へ卒業のはなむけに文章を寄せたので、ここにも載せておく。

 

 

 多くの人々は早熟の才能の、そのまぶしいほどの輝きを歓迎する。
 若くして完成されたその姿から、彼や彼女の力が天より与えられたものであると確信するからだろう。あるいは、自分とは生まれながらにして異なる存在である、そう思うことで自分の非才と向きあわずにすむからだろうか。
 しかし、そもそも「才能とはなにか」と私は考える。その根本的な問いのこたえは、ふだん問題にされない。たいていの場合、すぐれた資質は結果として目の前に現れるからだろう。勝利と敗北。新記録。他を圧倒するような技量や存在感。人間の才能が認知されるとき、そのありようは具体的である。
 ただ、そうしてわかりやすい表面をもつ場合、その深層にあるものや背後にあるものは、忘却されたり、はじめからないものとされたりすることが多い。人が早熟の才能について語るとき、それを開花させるための努力や、力を維持するための工夫は積極的に語られない。それらに言及するときも天賦の才の一部として、何か別の場所からやってきたもののように、あるいは偶然に獲得されたかのように表現される。
 他方で晩成の才能は、淡い光の比喩で静かに語られる。
 そして彼らについて語るときに注目されるのは、その者が恵まれた才能や資質よりも、開花するまでに積み重ねられた時間と営みである。覚醒までの間に受けとめた苦痛や労の重さを、精神的な強さと結びつけて伝えるのである。目にみえる成果があるにもかかわらず、目にみえない強さにばかり言及される。
 こうして才能について語る人は、その実態に接近しようと試みるが、結局は早熟と晩成、天才と苦労人のように使い古された対概念をおき、それをねじれた形で結びつけてしまう。その結果、才能について考えるほど定型に接近してしまい、才能の本質から遠ざかる。

 

 ただ、早熟と晩成という枠組みは有効だろう。次のような考え方ができる。
 才能はそれぞれのうちで常に潜在しており、そして発見される時をじっと待っている。早熟であるか晩成であるかは、見出されるタイミングの違いなのだと。
 そもそも得意なことは、なかなか自覚されないものである。自分では苦労なくできていることを、他人は苦しみながらやっている。そういったものが他者との比較を通じて「これは得意なものかもしれない」と見出される。この点において、才能とは相対的に決定されるものであるといえる。
 さらにいえば、才能とは人間のもつ資質のいびつさを換言したものだといえる。突出した才能とは、その者が持つ他の資質と比較して、ある特定の資質だけが著しく伸長した結果であるともいえる。ゆえに彼や彼女の資質が周囲の環境(あるいは時代ともいえる)と適合したときにのみ、それは才能として認知される。
 早熟、晩成と私たちにみえているものは、そうした周囲の環境と適合する時期の違いであり、あるいは他の存在との関係性の結果である。早熟の者が輝きを失うのは、彼や彼女自身が力をなくしたというよりも、広い意味での環境の変化、パラダイムチェンジ、ゲームの性質やルールの変容などによるものと考えられる。そして稀にみる、長く才能を示し続ける者は、時代をよみ、変化を続けて、その才を維持していると私は考える。(昨今、そういった人物は、もはや「伝説」や「神」とよばれて、人間扱いされなくなっている気もする。さらにいえば、そういったよび名が安売りされていることに辟易するところもあるのだが)

 

 では、われわれは自らの才能が見出されるタイミングがくるまで、眠ったままでよいのか
 当然、そういうわけにはいかない。目覚めのときがくるまで何もしなくてよいのは伝説の魔獣だけである。人間であれば勇者でさえ、スライムを倒してレベル上げをするのだ。現実を生きる人間こそ、日常生活というスライムを倒さなければならない。虚構は人生の断片であり、つまみ食いでもよいが、現実は持続的なものであり、おいしいところだけを味わうことはできない。酸いも甘いもかみしめるのである。
 才能の覚醒を待つとは、立ちどまることではない。機会が到来するまで準備を持続することである。
 ただ人は、圧倒的な力を目の前にすると、立ちすくんだり、逃げ出したりしたくなる。そうして、自分がまだ何ももたされていない現実と、全然覚醒しないかもしれないという不安に向きあう気力をなくしそうになる。そういうときに、思い出したい言葉がある。

 

僕は才能っていうのは、何よりまずチャンスを掴む握力と失敗から学べる冷静さだと思う。絵のうまい下手はその次だ。僕は僕よりうまい人間が、わずかな自意識過剰やつまらない遠慮のせいでチャンスを取りこぼしてきたのを何度も見た。惜しいと思うよ、未だにね。僕は運が良かった。今が頑張りどきだよ。(TVアニメーション『SHIROBAKO』第22話)

 

 作中に登場するベテランアニメーター・杉江茂が、若いアニメーターである安原絵麻へかけた言葉である。
 才能とは目にみえない抽象的なものではなく、具体的な営みなのだと思う。技術の獲得を怠らず、練習や試行、思考を繰り返して自身の技量を磨くことは好機をつかむ握力を強化することにつながり、仮に失敗してもその現実と向き合って「次はうまくやる」と手を動かし続けることが肝要なのである。限界をわずかでも押し上げる努力が、才能の覚醒を引き寄せる。
 そういえば、AKB48がアイドルシーンの中心にいたころ、じゃんけんでシングル曲を歌う選抜メンバーを決める大会があった。そのときリリースされた曲に『チャンスの順番』というものがある。歌詞は引用しないが、おそらく「才能」と呼ぶものの一要素がここにある。(本当によい曲である)

 

 さて、人生にとって才能とはなにか。私の考えをいえば、それは準備を持続することであり、自らに潜在する能力を磨きつつ、それが発揮される環境と時期とを探しつづける力である。そして、勝負のタイミングを見逃さず踏み出す勇気であり、仮に失敗したとしても次の機会を再び待つことのできる努力の持続性である。
 だから「いま、ここ」ですぐに結果が出ないことで絶望してはならない。また、望外の結果を得て有頂天になってもいけない。この世界には自分の力だけではどうにもならないことがあり、それでも学びつづけ、自らの力で可能なかぎりの努力しつづけることが必要なのだと、2020年の世界を生きた私たちはよくわかっているはずだ。
 人生はつづく。ながくつづく。人間の才能や資質は可変的であり、環境や他者との関係によって、あるいは自分自身の成長によって常に変化することを覚えておくべきである。やがてくるそれぞれの交差点を、あるいは「ここではない、どこか」で自分が何者になるかを常に想像して、これからの人生を歩んでほしい。諸君の幸運と幸福を祈る。