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いつまでも同じではないのだ

12月の中旬から年始まで、ひどい胃腸炎に苦しんでいた。

いまも後遺症ではないけれど、すこしおなかがゆるいままである。簡単にもとどおりになるというわけでなく、食べたり飲んだりする量も、以前のように無理がきくようになるには、まだ時間がかかりそうである。

食べること飲むことくらいしか楽しみのない、さみしい人生を送っている(正確には、本人はさみしさを感じていないのだが、周囲からはずるく生産性のない生活とみえているだろう)ので、体調が悪いせいで食えない、眠れないとなると、人生の希望がまったく失われるのである。

なぜ生きているのか、このまま消えていったほうがよいとさえ、病にふせっている間は思ったものである。ましてや、世の中が忘年会、クリスマス、そして正月とハレのメシを賞揚する、そんな時期でもあったから、なおさら哀しかった。


健康であることは宝だと、いま強く思う。

私自身、2023年は前厄であり体調の変化に対して、かなり慎重に対処してきたつもりであった。40歳の声を聞けば、無理がきかなくなり、身体も老いに向かって加速してゆくのが実感的にわかる。けれども、今年もそろそろ終わる、ああ乗りこえたと思った。そしてちょっとだけ調子に乗った。それが本当によくなかった。2023年のうちにやらなければならない仕事の総量がみえて、気がゆるんだのだ。終わりがみえたような気がしたのだ。(実際には、学校における教員の仕事に終わりなんかないので、錯覚にすぎないのだが、そのことさえ忘れるほどに浮かれていたのだろう)だから、アタるかもしれない食材を家で鍋にして食ってしまった。

 

その後はもう思い出したくもない。じぶんというダムが決壊して、上からはあふれ、下からは流れ出るのである、あらゆるものが。

人間はつまるところ、ただの管であるということを思い知らされた。口から入った物体は、食道と各消化器官を通って、ただ出てゆくばかりなのである。人体とは脚のついた空虚の物体であって、実のある存在ではないのだと思い知る。

また、厄年とは、先人たちの経験知なのだろう。人間の身体が変わってゆく、その変調の時期を探ったときに、どうも人間は賞味期限が40年程度であり、その後は、よほど慎重に過ごさなければパフォーマンスが下がってゆくことがわかった、ということなんだろう。


面白くもなんともない話だが、自戒と自省のために記しておかなければと思う。どんなに軽薄な内容であってもだ。いのちつづくかぎり、どんな人間にもかならず老いが訪れて、必ず終わりがくる。大キナ人モ 短イ人モ シツコイ人モ イツカハ果テル と野坂昭如は歌った。今回、じぶんは初めて死の覚悟を頭に浮かべ、そして醒めた眼で自分をみつめなおした。日常のどこにでも、自身の尊厳と生命をとり落とす瞬間はある。そういうような覚悟と慎重さが、自分をほんの少しばかりまともな人間にするのだと、心に刻むのである。