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それでも枯れたくないという思い

 早く「枯れたい」と言う人がいた。さまざまな欲望に、とくに40歳をすぎて性欲に悩まされるのはいやだと、しみじみいうのだ。当時20代だった私には、まったく理解ができなくて、むしろ枯れてしまったなら、じぶんを前に進める動力は何なのだろうと思った。

 けれども、いま少しだけその感覚をわかりつつある。具体的な欲求や欲望は、とにかく煩わしいのだ。日々の生活を感情の起伏なく、淡々と流していきたいと思うときほど、空腹の苛立ちや、疲れの自覚や、性欲の滞留が、日常のノイズとなって邪魔をする。

 それらを馴致するには、生活を営むのに必要な、あるいは仕事を回していくのに必要な体力や気力を、じわじわと使わなければならない。一時に多量に奪われるのではなく、普段は無意識に沈んでいるのに、時々ふと意識へ浮上してきてじわりじわりと力を削られていく。

 具体ではなく抽象へ、実在ではなく観念へ進もうとするとき、それを阻害するのが具体をもった、手ざわりのある欲求、欲望なのだ。肉体を忘れ、物質を忘れ、静かに穏やかな思考に没頭しようとこころみるときに、それを強制終了させてしまう煩わしいものを捨ててしまいたい。それが枯れたいという思いの内実なのかもしれない。


 けれども、やはり私は枯れたくないのだ。欲求や欲望の煩わしさに、いまこの文章を書いている瞬間にも悩んでいる。他方で、その煩わしさの自覚とその解消を求める営みこそが、じぶんを前へ進めていくと考える。

 そうして思い出す。そもそも、日常などやりたくないのだ。生活などやりたくないのだ。煩わしさに悩みながら、それを解消しようとする運動をつづけることを求めている。煩わしさは、ほんとうに解消される必要はなく、ただ、運動の原動力としてあればいい。

 それが文学をやるということだろう。あるいは、人生を文学にするということだろう。文学の実際から遠い仕事をしながら、じぶんの人生を文学化したい欲望を捨てられないでいる。ふつうの生活など求めていないのだ。ふつうをやれと、生活をやれと説きながら、じぶんはふつうを逸脱したいという欲望を捨てられない。


 そもそも、逸脱や過剰さのない人生に価値はあるのか。抑制の効いた生活にどれほどの価値があるというのか。私には、そんな暮らしは「死んだように生きている」か「生まれながらに余生を生きている」ようにしかみえない。

 他者の価値に自らを委ねて安心している。妥協と惰性の人生を疑わない。何も産むことなく、何も創出することのない存在であることを引き受けられるのか。私は、その怠惰をじぶんに許せない。何を失っても、堕落したくないと強く思う。

 だから、私は枯れたくない。死の瞬間まで牙を剥き、血を流し、じぶんの信じる価値を、この人生をもって表現しようと思うのだ。