残業手当はありません

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まぎれているくらいで、ちょうどいい

 固有名があきらかな状態で、人の群れている状況が苦しい。

 お互いに相手が誰かを知っており、逃げ場のない状況が。

 

 だから、雑踏や人ごみ、無名の観衆となれる場所にゆくと安心する。

 そこにいる人々は自分も含め、隣にいる人間が何者であるかに興味がないからだ。すれ違うだけの存在。もしかすると、一瞬は何かしらのつながりをもつかもしれない。歴史的場面を共有したという満足や、誰も予想しなかった幕切れへの驚きを確認しあうなど。けれども、それは何かの反応と同じように痕跡だけを残して姿を消す。そのあとを誰かにさぐられることもない。

 他方で、多くの人の前で固有名をもったまま、固有名の群れと対面することがある。「おまえがしてきたことの意味をおしえてやる」「おまえの価値を、あるいは無価値をしらせてやろう」「おまえが人にあたえたものをうけとめろ」といわれるようで、重圧がかかる。

 そこには、無邪気な善意もあれば、むき出しの悪意もある。だれかに好かれるために生きているわけではないが、わざわざ自分にむけられる憎しみとむきあいたいわけでもない。

 

  自分の仕事を、固有名で記憶されたいとはおもわない。

  そこを通過したという、記憶やエピソードの一部であればよい。

  誰のことばだったかではなく、そのことばの内実だけで思い出されたい。

 

 そうおもうから、自分自身への好意と敵対心とが、思慕と憎しみと無関心とが、混沌として渦巻いているだろう場所をわたしは避ける。

 集った人々がそれぞれに、はるか遠くへ過ぎ去った物事をたぐりよせる。すると、記憶と共に封印していた心の箱がひらくこともある。そうして、秩序のないままにふきだした感情の余剰が幽霊のように浮遊する空間がうまれる。そこにむかってためらいなく近づく勇気は、もうない。

 自分自身の固有名をまとって、その場所にたち、なお無傷でいられるとしんじるほど、過去の自分を批判せずにのうのうとたたずんでいられるほど、わたしは野蛮にも愚かにもなれないのだ。

 

  こういうおもいは、あまり理解されない。

  同業の人たちには、とくに。

  去っていった者たちの好意を、屈託なく信じているところがある。

 

 最近は、好き/嫌い、善/悪、友/敵など、物事は簡単に分別できるとかんがえられているようで、そういう価値意識で世界をながめている人たちからは、わたしの理屈はどうも曖昧で、面倒くさく、複雑にすぎるようだ。

 この世界には、もえるごみがもえるごみであることを疑わない人がいて、そういう人たちと自分とは永遠にわかりあえないのだと、あのとき、おもった。

 彼らはいう。敵意のある人間は排除すればよいし、相手にしなければよい。そんな存在は無視して、仲間といえる者だけに関心をむければよいだろうといわれる。自分に関心をもっている人がそこへ自分を招いたならば、自分にやさしくしないわけがない。そう考えられる屈託のなさ、疑いのなさがとてもまぶしい。

 

 あいたいとおもってくれる人がいて、他方であいたくないとおもう人がいる。

 そして、わたしの意識はどうしても、あいたくないとおもう人の方へむかう。

 感情の混沌とする場へでてゆく勇気のもちあわせは、年齢を重ねるごとに目減りしてゆく。

 

 わたしは、わかっている。ディズニーランドでキャストへむけられる好意は、キャスト自身へむけられたものではない。その役割が、立場が、キャストへ手をふらせていると。夢の国をでたら、わすれてしまう。わたしたちの仕事もそれと同じだ。

 

 だから、わたしはおもう。久保田早紀の歌にあるような存在でよい。

 

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