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力の証明を求められるとき(第164回天皇賞のこと)

 選挙の朝は、祭のあとである。駅の前やら通りやらで、やかましく声をはりあげていた人たちが嘘のように消え、静かないつもの日曜の朝がくる。選挙と深くかかわれば、残り火のように胸にのこる興奮をもって投票所へむかうのかもしれないが、そこまでの熱量をもたないわたしにとっては、ふしぎな書き味をもつあの紙にほんのすこしの願いをこめて投じるだけの儀式にすぎない。

 八大競走も、儀式という点では同じようなものかもしれない。じぶんにとっては。

 自分のものさしが少しずつでもよくなっているのか、少しくらいは賭事がうまくなっているのか、そしていまの自分は「もたされている」のか。定点観測の場、あるいはじぶんのさまざまのことを占う儀式のようにしているのかもしれない。(とはいえ「たかが、競馬」と大川慶次郎がいったように、そんなふうにじぶんをあずけるようなことをするよりも、きちんと馬券で勝つ努力をした方がずっと健全なのだろうが。馬券をやらないのが最も健全であることはいうまでもない)


 なにものでもないひとの世界には手ざわりがない。じぶんの小さな力がそこに干渉しているという感じがない。そういうひとが、たとえば選挙にのめりこむのかもしれない。力の証明というのか、存在の証明というのか、そういう自分を裏づけるなにかを求めて出てゆくのだろう。賭事はそれをもっと手軽にやれる手段と思える。(あるいは選挙こそ、莫大な資力と労力を費やして、ある者にとっては人生をすべてチップに換えておこなう壮大なギャンブルなのかもしれない)

 賭事の快楽は金をすてて、そのかわりに一瞬の興奮を味わうことである。その興奮が世界に直接ふれたような錯覚を喚起する。そして錯覚でかまわないと思っている。他方で賭事によって大金を得た者の表情がときに苦悶にゆがむのは、捨てたはずのものがふたたび現実としてかえってくるからだ。選挙に負けた者の清々しい表情と、選挙に勝った者の周囲にたちこめる重苦しい空気(これは誤りではない。開票速報をみれば、当選者の笑顔はマスコミや支援者の求めに応じて無理につくられるものであることがわかる)のそれだ。あとに何かが残るものは重圧が大きい。同じように金を使うものでも買い物は気が重いし、疲れる。その後に確実に物が残り、人生に干渉してくる。その額が大きければ大きいほど重い。家など買うものではない。だから、簡単に金をすてて快楽を得ようとおもったら手元に金が残り、より重い現実を背負わされて帰るのが賭事の勝者の宿命なのだろう。


 それでも、何かを残したい思う者が今日も競馬場で走っている。その重荷を背負うことを快楽とさえ思う人間と、それを生まれるまえから運命づけられた馬たちが。しかし三冠馬と最強短距離馬は、これ以上なにかを証明する必要があるか。自らの力は十分に誇示しただろう。あとは無事にキャリアを終えて、血の力の証明を子孫に託せばよい。

 いま自身の力を、そして父の血の力を証明しなければならないのは、エフフォーリアだ。

 上の世代を代表する2頭に自らの力を誇示する機会は、おそらくここしかない。挑戦者ではなく、同じ舞台にいるライバルであると証明しなければならない。


◎エフフォーリア

◯コントレイル

△グランアレグリア

☆ヒシイグアス

☆ポタジェ


3連単 5→1,9→1,4,9,15

 

 

 馬券を買うときに必要なのは冷徹な観察、洞察であろう。けれども八大競走くらいは願いをかけてもよいではないか。それくらいの希望がなければ、現実を生きられないだろう。